畠山重忠は平安時代末期から鎌倉時代に活躍した武将です。
智勇に優れ、清廉潔白な性格だった彼は「坂東武士の鏡」と称されて現在も多くの人々に愛されています。
畠山氏には支流が多くありますが、ここでは重忠に関連する流れを中心に、彼の出自や家紋、子孫について系図を辿りながら見てみましょう。
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平氏系?源氏系?畠山重忠の畠山氏
畠山氏は、武蔵国を本拠とする武家の一族。
主に桓武平氏系と清和源氏系の2家系があります。
天皇の血筋を引く高貴な家系が2つも畠山氏につながっていることは興味深いですが、それには畠山重忠の死が少なからず関係しています。
元々は桓武平氏の一族だった畠山氏
畠山氏は、もともと桓武平氏の中の秩父氏の一族で、
桓武天皇、その子孫である平高望らの血を受け継ぎ、武蔵国男衾郡畠山庄(現在の埼玉県深谷市畠山)の出身となっています。
その畠山氏の祖となったのが畠山重忠の父・重能です。
重忠は畠山氏の2代目です。
どういうこと?重忠の死を境に祖先が平氏から源氏へと変わった畠山氏
重忠は戦功も多く、源頼朝に重用された優れた武将でした。
しかし、頼朝の死後、重忠の息子の重保は、北条時政の後妻である牧の方やその娘婿である平賀朝雅との確執が原因で殺害されます。
ワナにはめられた重忠も1205年に北条軍との戦い(畠山重忠の乱)において戦死したのです。
生前の重忠は、北条時政の6女を妻にしていました。
重忠の死後、重忠の妻は足利宗家2代当主・足利義兼の庶子(妾の子)である足利義純と再婚します。
足利氏は、清和源氏の血筋の家系です。
その再婚時に、重忠の旧領も全て義純に与えられたのでした。
さらに義純の子は、畠山の名前を継ぎ畠山靖国と名乗って畠山氏の名跡を再興。
これが重忠の死を契機に桓武平氏の子孫だった畠山氏が清和源氏の子孫となったいきさつです。
こうして源氏の血を引く畠山氏が生まれたわけです。
義純の子孫の「畠山氏」は、のち室町幕府の三管領(将軍の補佐を行う幕府最高役職に選任される三家)の一家として繁栄し、江戸時代には高家(江戸幕府の儀式や典礼を司る家格の高い旗本)に列せられました。
しかしこの場合、「源氏の畠山氏」には重忠の血は流れていないことになります。
畠山重忠が使っていた家紋
先の説明のように畠山氏の中に桓武平氏系と清和源氏系があるわけですが、畠山重忠自身は桓武平氏系の子孫となります。
そこで、重忠の使用していたと考えられる家紋は、清和源氏足利氏流として知られる「二つ引両」ではなく、「小紋村濃」と呼ばれる家紋です。
『源平盛衰記』によれば、この家紋は源頼朝より賜ったものだそうで、全国でも珍しい稀少な家紋の一つとなっています。
畠山重忠の家系と子孫
ここでは、畠山重忠をもっとクローズアップしてその祖先や子孫との繋がりについて見てみましょう。
重忠の祖父から重忠へ
重忠の祖父は平安時代末期の武蔵国の武将であり豪族だった秩父重弘です。
その子で、重忠の父は畠山重能。
彼は源義朝・源義平親子つまり源頼朝の父親と兄に仕えていましたが、『平家物語』によると、1159年の平治の乱で源義朝・藤原信頼らが平清盛に敗れ亡くなった頃には、平家方に仕えていたとのこと。
頼朝が伊豆で挙兵した1180年にも、重能はまだ平家の家人でした。
その嫡男である重忠は、頼朝側と対立し、1180年の8月に衣笠城合戦にて源氏側の三浦氏の衣笠城を攻め落としています。
しかしその後重忠は頼朝に臣従し、治承・寿永の乱では源氏方として活躍。
父親の重能はそのころに 隠退したと考えられます。
重忠の家族
重忠の家族構成は以下のようになっていました。
母:三浦義明の娘または江戸重継の娘と言われる
兄弟:長野三郎重清、渋江六郎重宗、蓬莱三郎経重らが兄弟にいたと考えられる
妻:正室の北条時政の六女、側室に足立遠元の娘
子:重秀、重保、井田重政、円耀、重慶、島津忠久室などがあったとされる
重忠の子孫
重忠の子孫については不明確だったり、長く続かなかった子孫も少なくなく、全てがしっかり系図として辿れる人たちばかりではありませんが、繁栄した子孫もありました。
【源姓畠山氏としての重忠の子孫】
畠山氏が源氏を祖先とする一族となったのは、重忠の死後に彼の名跡を足利家の子孫が引き継いだから。
そこに重忠との血のつながりがないことは前述しました。
ところが、重忠自身と正室・時政六女の間に生まれた娘が足利義純と婚姻したという異説も存在するのです。
もし彼の娘が足利義純の妻となっていたのであれば、源氏系畠山氏に重忠の子孫が存在し、室町幕府の管領家につながる可能性がありますが、このあたりのことはまだ明確になっていません。
【平姓畠山氏の子孫】
重忠の子供たちの子孫には、
・武蔵藤田氏
・目黒氏
・江戸氏
・中根氏
・井田氏
・大窪氏
・浄法寺氏
・宮之原氏
らがあると言われています。
そのうち浄法寺氏は、戦国期には奥州の大豪族となりながらも江戸時代の始めに断絶した家系です。
伊地知氏も子孫は薩摩の豪族として活躍しました。
一族の中には、日露戦争の日本海海戦で戦艦三笠艦長を務めた伊地知彦次郎などがいます。
また、南北朝時代に新田義貞の側近として活躍した篠塚重広は重忠の子孫とされています。
しかし、上記の人々がどのような系譜を経て重忠とつながっていたのかは、多くの説があるようです。
きょうのまとめ
簡単なまとめ
① 畠山氏の祖先は桓武平氏だったが、畠山重忠の死後に清和源氏を祖先に持つ家系に名跡が受け継がれた
② 重忠の家紋は珍しい「小紋村濃」
③ 重忠の子孫は支流に分れて多くの氏族となっているが、その系譜にはさまざまな説がある
日本史ファンの間でも人気のある武将・畠山重忠。
現在のところ明確な史料によって直系子孫を辿ることができず、公式に認められた子孫がないのは残念です。
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