徳川家慶とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

徳川家慶いえよしと聞いてすぐにピンとくる人は、なかなかの歴史通かもしれません。

幕末の最後の30年、ラスト4人の将軍のトップバッターとなる第12代将軍・徳川家慶とはどんな人物だったのでしょうか。
 

徳川家慶はどんな人?

プロフィール
徳川家慶とくがわいえよし

徳川家慶像(徳川記念財団蔵、狩野雅信筆)
出典:Wikipedia

  • 出身地:江戸(現在の東京都千代田区)
  • 生年月日:1793年5月14日
  • 死亡年月日:1853年6月22日(享年61歳)
  • 江戸幕府第12代征夷大将軍。緊縮財政政策としての天保の改革、言論統制の蛮社の獄などを行い、黒船来航の直後に亡くなった
 

徳川家慶年表

年表

西暦(年齢)

1793年(1歳)第11代将軍・徳川家斉の次男として誕生

1837年(45歳)第12代将軍・徳川家慶となる。モリソン号事件

1839年(47歳)蛮社ばんしゃごく

1841年(49歳)大御所おおごしょ・徳川家斉いえなり死去。天保の改革(~43)

1842年(50歳)アヘン戦争

1843年(51歳)人返しの法。上知令あげちれい

1844年(52歳)オランダ国王の開国勧告の親書を提出

1853年(61歳)ペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来港、家慶が熱中症により死亡

 

徳川家慶の生涯

幕末の慌ただしい日本にあって江戸幕府の将軍となった徳川家慶。

彼の治世中には、歴史的な出来事が多く起きました。

誕生から将軍就任と父親との確執

1793年、徳川家慶は第11代将軍・徳川家斉の次男として江戸城で誕生しました。

1837年に第12代将軍となった徳川家慶ですが、既にそのとき45歳というかなりの遅咲きでした。

しかも、息子に将軍職を譲った父親の家斉は、そのあとも「大御所」として政権を握り続けたため、家慶は政務に深く関わることがなかったのです。

将軍家慶と父親の家斉との関係は良好ではありませんでした。

・在職中も引退後も変わらない家斉の贅沢三昧な暮らしが幕府の財政を圧迫したこと

・長い将軍職のあとも家斉が大御所として実権を握り続け、将軍に就任した家慶に発言力がなかったこと

これらが主な原因となって2人の関係を悪くしていたと考えられます。

家慶が将軍となったのと同じ1837年、モリソン号事件が発生しました。

来港したアメリカ船モリソン号をイギリス軍艦と勘違いした相模の浦賀と薩摩の山川の奉行所が砲撃したのです。

1825年に発布されていた異国船打払令に従い、日本人漂流民の返還と通商交渉のために来日したというこの船を攻撃してしまったわけでした。

これを聞いた蛮学社中ばんがくしゃちゅうという蘭学者グループの髙野長英たかのちょうえい渡辺崋山わたなべかざんらは幕府の対応を批判しました。

すると1839年に幕府はその報復として、先進的な蘭学者への言論統制「蛮社の獄」を行い処罰しました。

髙野長英は、終身牢の処分となり逃亡、渡辺崋山は終身一室での謹慎となり、その後に両名とも自害しています。

将軍家斉亡き後、内憂外患の家慶時代

1841年に大御所・徳川家斉が死没しました。

晴れて将軍家慶の天下となります。

家慶は父親の大御所時代の重臣を排除し、老中首座の水野忠邦みずのただくにを登用しました。

1842年にはモリソン号事件で問題となった異国船打払令いこくせんうちはらいれいを緩和し、さらに幕府の財政再建に乗り出します。

家慶は、水野忠邦に1841年から天保の改革を実施させました。

これは、当時の社会におけるあらゆる贅沢を取り締まる厳しい緊縮財政政策でした。

しかし、どの階層にも受け入れられず、世間では不満が激化。

結局、改革は失敗して1843年に終了し、水野忠邦は失脚してしまいました。

そしてこの政策の失敗が幕府の力を衰えさせてしまったのです。

将軍家慶は、水野忠邦の失脚後にまだ24歳だった備後・福山藩主の阿部正弘あべまさひろを登用。

1845年に老中首座となった阿部正弘は、幕政の責任者としてあらゆる問題に対処し、安政の改革と呼ばれる幕府の新体制づくり、人材登用、海防策などに活躍しました。

ところが1853年の夏のこと。

ペリーが黒船で日本に来航し、国交を求めてきたために幕府がその対応に追われる中、なんと徳川家慶は亡くなってしまいました。

死因は熱中症だったのではないかと言われています。

享年61。
 

 

天保の改革とは

1841年から43年にかけて行われた、老中水野忠邦による幕政改革です。

将軍・徳川家慶は、父親の徳川家斉の代から受け継いだ瀕死状態の幕府の財政状態を改善させるため、老中首座の水野に改革を命じたのです。

天保年間には国内外で以下のような問題が山積していました。

・全国的な凶作と大飢饉

・物価高騰

・百姓一揆や打ち壊し

・1836年大塩平八郎の乱

・1837年モリソン号事件

・1840年アヘン戦争

水野はこの諸問題に対処し幕府権力の強化を目指すため、過去の享保きょうほう寛政かんせいの改革に習って、以下のような財政緊縮綱紀粛正を行ったのです。

・1841年
 倹約令(贅沢品や華美な服装などを禁止)

 株仲間(販売権などの特権を持ち、商業の統制を図る組織)の解散、貨幣改鋳(実際は貨幣の改悪)

・1842年
 天保の薪水給与令しんすいきゅうよれい(異国船打払令の緩和)

・1843年
 人返しの法(凶作で江戸に流入した貧農を強制的に帰村させる)

 上知令(江戸・大坂周辺約50万石を直轄領とする→のちに撤回)

しかし、社会の不満が激化し、改革は失敗

幕府の権力を失墜させた水野忠邦は失脚しました。

 

実は息子を将軍にしたくなかった将軍家慶

徳川慶喜

大御所・徳川家斉の死後すぐに家慶は四男の家定を将軍の跡継ぎにすることを決めています。

その理由は簡単でした。

彼は14男13女をもうけた子沢山でしたが、その中で無事に成人できたのが4男の徳川家定だけだったからです。

ところが、その家定は幼い頃から病弱で内向的。

実は家慶は、自分の息子が列強諸国が迫ってくる激動の時代に対応できる将軍になれるとは思っていませんでした。

代わりに、彼が次の将軍になって欲しいと考えたのは、英明の誉れも高く、のちに第15代将軍となる徳川慶喜よしのぶでした。

家慶は、水戸藩主・徳川斉昭なりあきの7男だった慶喜を将軍職に就けるため、慶喜に一橋徳川家を相続させてその準備をしています。

しかし、将軍の継嗣けいしには嫡子を優先すべきだと阿部正弘たち老中たちに諫められた家慶は、慶喜を諦め家定に将軍職を譲ったのでした。

 

徳川家慶の評価

徳川家慶の政治力に対する評価はさまざまです。

越前国福井藩主で、のちに政事総裁職に任じられた松平春嶽しゅんがくは、家慶のことを「凡庸の人」と評しています。

家慶の父・徳川家斉は将軍・大御所として幕府権力を握っていた期間が長かったため、家慶には将軍らしく政治を行う期間は長くありませんでした。

趣味に没頭し、政務に対して無気力だったとも言われています。

家臣の意見に対しても「そうせい」としか言わなかったため、「そうせい樣」と家臣からアダナされるほど。

とはいえ、実権がなかった家慶にはそう答える他なかったという気の毒な事情もあります。

自らの政治能力を発揮する機会にはそれほど恵まれなかった家慶。

しかし実は時勢を見極め、人を判断する力に優れていました。

在任中には素早い決断を行い、思い切った人材登用をしたことが知られています。

父親の徳川家斉の長い治世で幕府内が腐敗し悪習がはびこりましたが、家慶は父の死後すぐに腐敗の根源となった重臣らを一掃。

天保の改革に踏み切りました。

改革は失敗でしたが、その後に早速24歳の若い阿部正弘を抜擢するという思い切った人事を断行しています。

 

徳川家慶の墓所

徳川家慶の墓は、徳川家の菩提寺・増上寺にあります。

境内の奥には、第12代家慶を含む

・第2代秀忠
・第6代家宣
・第7代家継
・第9代家重
・第14代家茂

ら6人の将軍、将軍たちの正室・側室・子女たち計38人が眠る「徳川将軍家墓所」があります。

もともと増上寺には御霊屋おたまやと呼ばれる「旧徳川将軍家霊廟れいびょう」がありましたが、1945年の空襲でほとんどが焼失してしまいました。

1958年から学術調査が行なわれたのち、土葬されていた遺体は荼毘だびに付されて現在地に改葬されています。

<徳川家慶の墓所 大本山増上寺 徳川将軍家墓所:東京都港区芝公園4丁目7-35>

 

きょうのまとめ

徳川家慶とは?

① 就任を45歳まで待ち、大御所政治を続ける父・徳川家斉が亡くなるまでの長い間政務を執行するチャンスがなかった江戸幕府第12代将軍

② 日本の国内外で大きな事件が続いた激動の時代に江戸幕府を率いた人物

③ 老中の水野忠邦や阿部正弘らに命じて腐敗した江戸幕府と乱れた社会を改革しようとした為政者

でした。

まさに内憂外患だった幕末の日本が対面する問題に苦しみ、自分の父親や息子にも悩まされた、第12代将軍・徳川家慶。

彼の人生で心安らかにすごせた時間はどれほどあったでしょうか。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku