織田信雄とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

織田信長

 

戦国三大英傑の一人、織田信長を父親に持つ

織田信雄おだのぶかつは愚将だと言われることもあります。

それはなぜなのか、そして信雄とはどんな人物だったのでしょうか。

 

織田信雄はどんな人?

プロフィール
織田信雄おだのぶかつ

総見寺蔵
出典:Wikipedia

  • 出身地:尾張国
  • 生年月日:1558年
  • 死亡年月日:1630年4月30日(享年73歳)
  • 織田信長の次男。父親の死後、後継者となることはかなわず、豊富秀吉、徳川家康に仕えた。独断で行動する失敗もあったが、結果的に大名として長く存続した

 

織田信雄年表

年表

西暦(年齢)

1558年(1歳)尾張国の生駒屋敷で織田信長と生駒吉乃の次男として誕生。

1569年(12歳)北畠具教の養嗣子となり、北畠具房の娘・雪姫と結婚。伊勢国の支配権を北畠具教から奪う

1572年(15歳)元服

1575年(18歳)北畠家の家督を継承。越前一向一揆討伐に参加。

1576年(19歳)三瀬の変で北畠家を乗っ取ることに成功

1579年(22歳)父・信長の命令がないまま独自に第一次天正伊賀の乱を開始し大敗

1581年(24歳)第二次天正伊賀の乱にて伊賀国を再度攻撃し、伊賀国平定に成功

1582年(25歳)本能寺の変で父・信長が死亡。清洲会議で信長の孫・三法師が信長後継者となる。信雄は尾張・伊勢の2カ国を支配する

1583年(26歳)賤ヶ岳の戦いで織田信孝を降伏させ、岐阜城を開城させる

1584年(27歳)小牧・長久手の戦いで家康と同盟を組み羽柴秀吉と対決するが和睦

1587年(30歳)秀吉の九州征伐に従軍

1590年(33歳)秀吉の小田原征伐で武功を挙げ、秀吉に国替えを命じられるが拒絶し改易となる。下野国へと流罪。出家

1592年(35歳)秀吉の朝鮮出兵で家康の仲介にて「文禄の役」に復帰

1600年(43歳)関ヶ原の戦いを傍観。戦後家康から改易される

1614年(57歳)大坂冬の陣

1615年(58歳)大坂夏の陣。越前国・上野石に5万石を与えられて大名に復帰

1628年(71歳)領地を息子たちに分け与えて京都にて隠居

1630年(73歳)京都の邸宅にて死去

 

織田信雄の生涯

織田信雄は73年の生涯を追います。途中何度か改名していますが、本記事では信雄で統一します。

誕生と北畠氏乗っ取り

織田信長

1558年、織田信長を父とし、彼の最愛の側室・生駒吉乃いこまきつのを母として誕生したのが次男の織田信雄です。

幼名は、結った髪の毛が茶筅ちゃせんのようであることから「茶筅丸」でした。

1569年、大河内城の戦いで北畠具教きたばたけとものりに勝った織田信長は、和睦条件として信雄を具教の養嗣子ようしし(家督相続人となる養子)とさせ、彼の娘をめとらせました。

1575年に信雄が北畠の家督を相続

さらに三瀬の変で信長と信雄は共に北畠具教と2人の子を含め家臣らを抹殺、駆逐して、織田家による北畠家乗っ取りに成功。

北畠家の南伊勢5郡は、そのまま信雄の権力基盤となりました。

天正伊賀の乱から本能寺の変と清洲会議

1579年、信雄は信長に無断で約1万の軍勢を率いて伊賀国に攻め入り(第一次天正伊賀の乱)、大敗。

1581年の第二次天正伊賀の乱では伊賀国を平定しました。

1582年に本能寺の変で父・信長と兄・信忠を失った信雄は、その後の清洲会議で自身が主張する織田家の後継者にはなれませんでした。

信長の孫の三法師が跡継ぎとなり、信雄は信孝と共にその後見役となっています。

そして信長から尾張・伊賀・南伊勢の併せて約100万石を相続。

尾張・伊勢では2度の検地を行い、知行制を確立して在地掌握の強化を実行しました。

豊臣政権下へ

豊臣秀吉

その後も信長の後継問題はもつれ、織田信孝が三法師を引き渡さないため、秀吉は清洲会議の決定事項を反古ほごとして、彼に賛同した徳川家康と共に信雄を当主として擁立しました。

それを不服とする信孝・柴田勝家らと秀吉が争ったのが1583年の賤ヶ岳しずがたけの戦いです。

信雄は秀吉方として岐阜城の信孝を攻めて降伏させ、のち信孝は切腹。

柴田勝家も信長の妹である妻の市と共に自害しています。

信雄は三法師の後見として安土城へ入りますが、秀吉に退去させられ2人の関係は悪化しました。

1584年の小牧・長久手の戦いでは信雄は家康と同盟を組んで秀吉と争いましたが、信雄が秀吉との単独講和を締結したことで戦が終結しました。

以降信雄は秀吉に臣従。

信雄の娘は秀吉の養女となり、徳川秀忠と結婚しています。

1590年には秀吉の小田原征伐に従軍した信雄は武功を挙げます。

戦後の論功行賞で移封となると、尾張の地を離れるのを拒否したため秀吉の怒りを買い、改易・流罪となった信雄は出家しています。

徳川政権下へそして晩年

配流地を点々とした信雄は、1592年に家康の仲介により秀吉の御伽衆おとぎしゅうとして大名に復活。

信雄が大和国内に1万8000石、嫡男・秀雄ものちに越前国大野に5万石を付与されました。

しかし、1600年の関ヶ原の戦いに参戦せず静観したため、家康によって信雄と秀雄は共に改易されました。

それでも信雄は再び豊臣家に出仕しますが、1614年の大坂冬の陣の直前に徳川方へ転身。

大坂城内での情報を流す間者として働いていたと言われ、戦後に家康から大名に取り立てられました。

家康から大和国宇陀郡、上野石甘楽郡などで5万石を与えられ、産業育成、領地での庭園造りなどを行っています。

のち、四男の信良に上野小幡藩2万石を分知してから京都に隠居

茶や鷹狩りなどを行う悠々自適の晩年を送りました。

1630年、京都北野の屋敷にて亡くなりました。

 

信雄の愚将伝説は本当なのか

妙なことをすると「三介殿(信雄の通称)のなさることよ」と諦めと嘲笑を込めて言われたという織田信雄。

多くの戦に参戦し、武功も挙げた信雄ですが、なぜ「あの織田信長の息子なのに愚将」と言われるようになったのでしょうか。

愚将と呼ばれる理由

理解できない独断行動も多く、

・信長に無断で伊賀国に攻め入り、大敗した

・本能寺の変の直後、京に近い甲賀まで軍を率いていたにもかかわらず明智光秀を討たずに引き返した

・安土城を燃やしてしまった(信雄の仕業ではないとの説もあり)

・小牧・長久手の戦いで同盟軍の家康に無断で敵方の秀吉と単独講和を結んだため家康が困った

・二度も領地を没収されている

などが理由として挙げられます。

大失敗した天正伊賀の乱

信雄が1579年に起こした第一次天正伊賀の乱は、信長に無断で始めた伊賀攻めで、しかも重臣を失って大敗。

信長は信雄に譴責状けんせきじょう(失敗や不正を咎める書状)を送って叱責し、親子の縁を絶つ寸前となりました。

1581年の第二次天正伊賀の乱での戦勝は、信長の仕切り直しにより10万の兵で侵攻したからです。

本能寺の変後仇を討たなかった

父・信長が明智光秀に討たれた1582年の本能寺の変

その後で信雄は近江まで進軍したものの、何らかの理由で戦わないまま撤退しました。

結局明智光秀を討つチャンスを秀吉に与えたとも言われます。

小牧・長久手の戦いで家康が困惑した信雄の身勝手な講和

1584年の羽柴秀吉相手の小牧・長久手の戦いで苦戦にあえいだ信雄。

同盟者の家康に断り無く秀吉と勝手に講和を結んでしまいました。

おかげで信雄を助ける目的で戦っていた家康は、困惑しながらも戦う理由を失い撤兵しています。

2度の領地没収

一度目は1590年の小田原征伐の武功で、尾張国を離れて家康の旧領への移封となったのを拒否したためです。

秀吉の怒りを買い、改易・流罪となってしまいました。

二度目は、関ヶ原の戦いの際に東軍にも西軍にもつかずに静観していたことが原因で家康から改易。

2度も領地を取り上げられ、それでも大名に返り咲いた信雄は強運の持ち主といえそうです。

 

織田信雄の墓所

信長追善供養の寺・総見院の信雄墓碑

大徳寺塔頭たっちゅう総見院そうけんいんは、豊臣秀吉が織田信長の一周忌の追善供養をするために創建した禅寺です。

ずらりと並ぶ織田一族の墓碑の中、信長の両脇に長男の信忠と次男の信雄の墓が建っています。

鐘と鐘楼、そして秀吉が造らせた織田信長坐像は国の重要文化財です。

<大徳寺塔頭総見院 織田信雄墓碑:京都府京都市北区紫野大徳寺町53>

小幡織田氏菩提寺・崇福寺の信雄墓碑

信雄を初代とする小幡織田家の菩提寺です。

寺が1758年と1871年に二度の火災で焼失し、5代以下の墓石は破損していますが、信雄を含めた7代の五輪塔形の墓は旧境内に当たる山際にあります。

位牌堂には信雄の位牌も残されています。

<崇福寺 織田信雄墓碑:群馬県甘楽郡甘楽町小幡1416>

 

きょうのまとめ

織田信雄とは?簡単にまとめると

① 父・織田信長の死後に豊富秀吉、徳川家康に仕えた武将

② 生涯では武功も挙げたが大敗や失策、二度の領地没収を経験した大名

③ 隠居後は京都の屋敷にて悠々自適の晩年を送り、73歳の生涯を静かに終えた人物

でした。

 

天下人だった織田信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康とに挟まれて生きた織田信雄の人生は、強大なプレッシャーの中にあった生涯でもありました。

 
目次に戻る ▶▶
 

合わせて読みたい
関連記事 >>>> 「織田信雄の後世への貢献。子孫と彼が遺したもの」

 

その他の人物はこちら

安土桃山時代に活躍した歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【安土桃山時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

時代別 歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

4 × four =

ABOUTこの記事をかいた人

歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku