生まれも育ちも鹿児島という幕末の薩摩藩士・村田新八。
幼い頃から年上の西郷隆盛に心酔していました。
人生の大部分を敬愛する西郷のために生き、彼に付き従って戦ったという男臭い九州男児の村田ですが、教養があり、どこか優雅な一面のある人物でした。
彼がアコーディオンを愛し、戦場にまで持ち込んだという話が残っています。
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村田新八とアコーディオン
記録によると、村田新八が持っていた蛇腹楽器は「手風琴」と呼ばれるものでした。
蛇腹楽器の中には、鍵盤が奏者の右手側にあるアコーディオンと、右手側にも左手側にもボタン鍵盤がついているバンドネオンやコンサーティーナなどがあります。
どうやら村田が持っていた「手風琴」とは、コンサーティーナのことではないかと考えられていますが、ここではわかりやすいアコーディオンと呼んでおくことにします。
村田新八のアコーディオンとの出会いとは?
1871年明治政府は、岩倉具視を特命全権大使とする使節団をアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国に派遣しました。
その目的は友好親善と欧米先進国の視察、そして江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約の改正に向けての予備交渉をすることでした。
村田新八は随行として使節団に加わっています。
村田とアコーディオンとの出会いは、この海外視察の時。
オペラを気に入った彼は、そこで演奏されたアコーディオンの音色に魅入られました。
村田はアメリカでアコーディオンを購入し、ヨーロッパに渡っても練習を重ね、西洋の多くの曲を弾けるようになりました。
村田新八も随行した、岩倉使節団の特命全権大使
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村田新八は戦場でアコーディオンを弾いた!?
1874年に帰国した村田は、その時もアコーディオンを大切に持ち帰っています。
帰国した彼を日本で待ち受けていたのは、政局における征韓論(武力で朝鮮を開国しようとする主張)の争いでした。
西郷隆盛が征韓論に敗れて明治政府を去り、鹿児島に戻ったことを知ると、村田も辞職して西郷について行ったのです。
1877年、西南戦争勃発。
西郷隆盛を中心にする薩摩軍の中に村田新八の姿もありました。
実は、彼が戦場でアコーディオンを弾いていた、というのはどうやら事実ではないようです。
ただし、村田の手元にはいつもアコーディオンがありました。
そして、戦いが終了すると、アコーディオンを手にしてフランス国歌であり、フランス革命の曲でもある「ラ・マルセイエーズ」などを弾いたのだそうです。
<ラ・マルセイエーズ>
村田新八が幼いころから心酔していた
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アコーディオンとの決別の時
欧米での経験の影響を受けていた村田は、戦闘中はシルクハットにフロックコートを羽織り、日本刀を振りかざして隊を指揮していたと言われます。
死闘を繰り返す戦場にあってもどこかエレガントさを感じさせますね。
しかし、状況は圧倒的に薩摩軍に悪く、占拠した鹿児島城は政府軍に包囲されました。
軍は西郷隆盛の命だけでも救おうと政府軍に使者を送るなどしましたが、かないません。
状況を理解した村田は、城山での最後の夜にアコーディオンを弾いて皆に聴かせ、そのあとに大切にしてきたアコーディオンを火にくべて焼却したのだそうです。
彼なりの死への覚悟だったのでしょう。
その後、政府軍が総攻撃を仕掛けてきました。
戦いの中で敬愛する西郷隆盛の自刃を確認した村田新八は、交戦のあと彼自身も自決しています。
和歌や漢詩にも才能を見せた教養人
欧米の洗練された芸術、習慣や服装などに深い関心を持っていた村田新八は、和歌や書簡などを多数残した人物でもあります。
例えば、村田が1862年に喜界島に遠島になった時に薩摩から喜界島までの行程を記録した『宇留満乃日記』。その中に記された和歌を一首ご紹介します。
(思ってもみなかったことだが、都を離れてうる島や沖に見える小島に声を無くしてしまうことになるとは)
どうやらこの歌は、平安時代の朝廷の高官であった小野篁の以下の歌に影響された本歌取り(和歌・連歌などで先陣の策の用語・語句などを取り入れて作成すること)のようです。
(考えてもみなかったことだ。親しい人たちと別れて遠い田舎で心身ともに弱り果てながらも、漁師の網を引っ張って、魚を取ることになろうとは)
小野篁は非常に優秀な官吏であり公卿でありながら、反骨精神にあふれた行動のために隠岐に流罪になった人物です。
そんな彼に村田新八は自分を重ねたのかもしれません。
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きょうのまとめ
今回は、戦場でもアコーディオンを手元に置いていたという、戦う薩摩の教養人・村田新八についてご紹介しました。
簡単なまとめ
① 村田新八が海外視察から日本に持ち帰ったアコーディオンは、当時手風琴と呼ばれたコンサーティーナだったと考えられる
② 村田は、西南戦争時にはアコーディオンを手元に置き、シルクハット、フロックコートに日本刀、といういでたちで戦闘を指揮した
③ 村田は音楽を愛し、日記や和歌を残すなど繊細な教養人でもあった
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