世界恐慌の最中、大統領としてアメリカのリーダーとなり、
ニューディール政策や第二次世界大戦によってアメリカ経済を好転させた人物、
フランクリン・ルーズベルト。
長期にわたり大統領を務めた彼は、第二次世界大戦終結間近で突然その生涯を終えました。
フランクリン・ルーズベルトとは、一体どんな人物だったのでしょうか。
今回はその全体像を簡潔にご紹介していきます。
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フランクリン・ルーズベルトはどんな人?
- 出生地:アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ハイドパーク
- 生年月日:1882年1月30日
- 死亡年月日:1945年4月12日(享年63歳)
- 世界恐慌、第二次世界大戦時のアメリカ合衆国第32代大統領。 ニューディール政策を実施。国際連合を創立。
フランクリン・ルーズベルト 年表
西暦(年齢)
1882年(0歳)ニューヨーク州のハイドパークで裕福な家庭に生まれる。
1896年(14歳)名門グロトン校に入学。
1904年(22歳)ハーバード大学卒業。
1908年(26歳)コロンビア大学ロースクール卒業。ウォール・ストリート法律事務所で働く。
1914年(32歳)第一次世界大戦時、民主党のウィルソン大統領の下海軍次官補を務める。
1928年(46歳)ニューヨーク州知事に選出。
1932年(50歳)アメリカ大統領選挙で当選。翌年の3月に就任。ソ連を承認。
1936年(54歳)大統領選挙で再選。翌年、日独を侵略国家として非難。
1939年(57歳)7月26日、日米通商航海条約の廃棄を通告。9月5日、中立宣言を発表。
1940年(58歳)大統領選挙で再選(3選)。
1941年(59歳)4月16日、日米交渉開始。8月1日、対日石油輸出を禁止。8月2日、対ソ経済援助開始。12月8日、太平洋戦争勃発。
1942年(60歳)6月5~7日、ミッドウェー海戦。
1943年(61歳)11月22日、カイロ会談。11月28日、テヘラン会談。
1944年(62歳)6月6日、ノルマンディー上陸作戦開始。11月7日、大統領選挙で再選(4選)。
1945年(63歳)2月4日、ヤルタ会談。4月12日、死去。
フランクリン・ルーズベルトの生涯
激動の時代の大統領
1882年、ニューヨークの裕福な家庭に生まれたフランクリン・ルーズベルト。
彼は元アメリカ大統領、セオドア・ルーズベルトの遠い従弟で、
学生の頃からセオドアを目標に政治家を目指していました。
ハーバード大学やコロンビア大学で法律を学び、
ウォール・ストリートにある法律事務所での経験を経て、
第一次世界大戦時にはウィルソン大統領の下で海軍次官補を務めるまでになります。
そして1928年にニューヨーク州知事に選出されると、1932年には世界恐慌の最中
大統領選に立候補し、「ニューディール政策」をかかげて当選を果たします。
大統領就任後は、世界恐慌の克服のために多岐にわたる政策を実施し、
ラジオなどのメディアを通して国民に直接声を届けることで、
その人気を高めていきました。
そして第二次世界大戦が勃発すると、武器をイギリスに貸すなどして連合軍を主導し、
戦後の国際平和を維持するための機構、後の「国際連合」の生みの親となりました。
任期が長く人気は高い
フランクリン・ルーズベルトが大統領を務めた年数は、1933年~1945年の約12年間。
これは彼が大統領選挙で4選を果たしたことを意味し、
アメリカ大統領史上最も任期が長かった大統領ということになります。
初代大統領ジョージ・ワシントンが3選していますが、
それ以降の大統領たちは皆2選までというのが暗黙の了解になっていたことから、
異例の大統領となりました。
しかし時代を考えてみれば、不安定な経済と戦争という有事を抱えた国のリーダーが
頻繁に代わってしまうということは、更なる混乱を招きかねません。
こうした国民の不安と期待を一身に背負ったのが、フランクリン・ルーズベルトだったのです。
ちなみに彼の死後、憲法の改正によって現在の大統領はその任期が2期までと
正式に定められています。
フランクリン・ルーズベルトにまつわるエピソード
ここからは、フランクリン・ルーズベルトの意外と知られていないエピソードをご紹介していきます。
車椅子の大統領
フランクリン・ルーズベルトはアメリカ史上唯一4選を果たした大統領でしたが、
実は唯一、重度の身体障がいを患った大統領でもあったのです。
彼は幼少期からたびたび病にかかる病弱な体質でしたが、
成人後に小児麻痺にかかった影響で、その後遺症により足を動かせなくなってしまったのです。
それ以降その生涯を車椅子に乗って過ごすことになりましたが、
彼は大統領になり国民の前に姿を見せるようになってからも、
あまり車椅子姿を見せないようにしていたといいます。
ニューディール政策の実態
フランクリン・ルーズベルトが大統領選に立候補する際にかかげていた、
「ニューディール政策」。
実は立候補者の段階ではまだ、その具体的な内容は決まっていなかったのです。
さらに就任後、多岐にわたる政策内容を打ち出し取り組んでいきましたが、
そのほとんどがあまり良い結果を生まず、
それどころか経済活動に関する過剰な政府の介入が社会主義的であるとの見方もされ、
批判の的にもなっていました。
では、フランクリン・ルーズベルトはアメリカの経済をどこで回復させたのか。
それは第二次世界大戦に参戦して連合国を主導し、太平洋戦争で日本に勝利し、
第二次世界大戦における戦勝国となったことでした。
彼は戦争に参加することでアメリカの経済活動を活発にし、
ニューディール政策での失敗を事実上、上書きしたのです。
不倫していた
フランクリン・ルーズベルトはコロンビア大学に通う23歳の頃、
セオドア・ルーズベルトの姪のエレノア・ルーズベルトと結婚し、
6人の子供を授かっています。
しかし彼は30代の頃に愛人をつくってしまいます。
相手はフランクリン・ルーズベルトが当時海軍次官補を務めていた時の秘書で、
それを知った妻のエレノアとは表面上は和解したものの、
それ以降2人の仲は冷え切ったままだったといいます。
その後、フランクリン・ルーズベルトと愛人の関係は復活し、
彼の最期に立ち会っていたのはなんと彼女の方だったのです。
きょうのまとめ
今回はアメリカ合衆国第32代大統領、フランクリン・ルーズベルトについて、
その生涯をエピソードなど交えながらご紹介していきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、フランクリン・ルーズベルトはどんな人物だったのか簡単にまとめると
① アメリカ合衆国第32代大統領で、史上初の4選を果たした20世紀を代表する政治家の一人。
② 世界恐慌の最中「ニューディール政策」を打ち立てたが事実上失敗。不安定なアメリカ経済を克服したのは第二次世界大戦への参戦、そして戦勝国となったから。
③ ラジオやメディアを駆使して国民と対話するという形式を採り、国民の根強い支持を得る一方、ソ連の容認や人種差別主義といった負の側面が現在でも批判されている。
1945年4月15日、フランクリン・ルーズベルトは
療養のため滞在していた別荘で倒れ、そのまま命を落とします。
晩年は大統領の身でありながら、意識が混濁することも多く、
執務もままならない状態が続いていたといいます。
そんな彼がもし、第二次世界大戦の終結まで大統領を続けていたとしたら、
敗戦国である日本は一体どんな戦後を迎えていたのでしょうか。
彼が日本人嫌いであったことを考えると、少しぞっとしますね。
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おそらく彼の足が悪かったから、ヤルタ会談等も座ったままで行われたのですね
コメントありがとうございます!
おっしゃるとおりかと思います。