小野家は遣隋使・小野妹子を祖にもつ貴族で長く外交に携わった家系です。
現代それほど知られた人物ではないかもしれません。
そこで今回、小野篁がどんな人物で、
どれほど魅力的だったかについてご紹介させていただきました。
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小野篁はどんな人?
- 出身地:不明
- 生年月日:802年
- 死亡年月日:853年2月3日(享年51歳)
- 「野狂」とあだ名されるほどの反骨精神を持ち、流罪から復活できるほどのやり手官僚。詩歌に優れ、不可思議な伝説を持つ人物
小野篁 年表
西暦(年齢)
802年(1歳)参議・小野岑守の長男として誕生
833年(32歳)皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられる
834年(33歳)遣唐副使に任ぜられる
836年(35歳)悪天候のため渡唐に失敗
837年(36歳)悪天候のため再び渡唐に失敗
838年(37歳)遣唐大使・藤原常嗣と争い、病などを理由に3度目の唐への航海を拒否。 のち隠岐国へと流罪となる
840年(39歳)赦免され、平安京に戻る
842年(41歳)道康親王(のちの文徳天皇)の東宮学士に任ぜられる
847年(46歳)参議に任ぜられ公卿となる
852年(51歳)病没
小野篁の生涯
小野篁の父親は、現代で言う閣僚に相当する参議の小野岑守です。
篁は晩年に同じ役職の参議に就いています。
家柄
小野家は遣隋使、小野妹子を祖にもつ貴族で長く外交に携わった家系です。
一族には、のちに書家として知られる小野道風、武人の小野好古、そして美人の誉れ高い小野小町がいたとされています。
朝廷での篁の活躍
少年時代には弓馬に夢中になりすぎ、それを嵯峨天皇に嘆かれました。
そこで、彼は心を入れ替えて学問に精進し、文章生試にも合格してのちには優秀な学者となりました。
また政務能力に長けた官僚としても活躍。
仁明天皇の皇太子である恒貞親王の東宮博士、文徳天皇となった道康親王の東宮博士として漢詩を中心とした勉学の師も務めています。
また、法についての知識も豊富だったため、律令の解説書である『令義解』の編纂にも加わっており、序文を執筆しました。
遣唐使放棄、流罪からの復活
834年には遣唐副使に任ぜられました。
しかし、2度の唐への渡航の失敗のあと、838年の3度目の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の無茶に抗議して渡航を拒否。
その上遣唐使の事業、朝廷を風刺する漢詩を詠んだために、嵯峨天皇の逆鱗に触れ、同年に隠岐の国への流罪となりました。
篁は多大な犠牲を払ってまで行う遣唐使の事業の限界に気づいていたようです。
現に、篁が断った遣唐使船が事実上の最後の遣唐使となっています。
篁は2年後の840年には罪を許されて朝廷に復活。
その文才の優秀さに免じて官位も流刑以前のものに戻され、そこから再び昇進していきました。
東宮学士、従四位下・蔵人頭(蔵人所の長。公卿への登竜門となる重要なポスト)などをへて847年には参議となって公卿の仲間入りを果たします。
850年、文徳天皇の元で従三位に叙せられますが、同年、病のために亡くなりました。
亡くなる前には文徳天皇は篁を心配して何度も使者を使わせ、病気の治療を金銭的にも援助したといいます。
篁は、自分が死んだ時は他人に知らせずに、ただちに葬儀を行うことを命じていたそうです。
篁の人物像
小野篁の魅力的な人間像は歴史書の簡潔な漢文に記録されています。
「…配流隠岐…文章奇麗…凡当時文章 天下無双… 薨時年五十一。
篁身長六尺二寸 家素清貧 事母至孝 公俸所当皆施親友」
(『日本文徳天皇実録』)
しかし、そんな彼のあだ名は「野狂」。
遣唐使の時の一件を含め、その反骨の精神や、武芸、鋭すぎる洞察力や先見性が恐れられてのことかも知れません。
さらに遠い流刑地から復活した男として、奇跡をおこす霊力を持ち、閻魔大王の補佐をやっていたという伝説まで生まれました。
小野篁の頭のキレを示す逸話
篁の文才には多くが魅了され、頭の切れ具合を示す逸話では、天皇までもがやり込められています。
皆が口ずさんだ篁の和歌
当サイトの別記事(「隠岐への流罪のはずが・・・。小野篁の復活劇!」)にてご紹介した篁の和歌とは別に、平安時代前期の勅撰和歌集『古今和歌集』に登場する歌をもう一首をご紹介しましょう。
(私の泣いて流す涙が雨のように降ればよい。あの世へと渡る三途の川の水かさが増し、「渡れません」と言って、妹が引き返してくるように)
篁の異母妹が亡くなった時に詠んだという歌です。
平安朝の多くの人が口ずさみました。
この歌が元になり、後世に創られた架空の物語『篁物語』があると言われます。
それは、篁とその異母妹との禁断の恋物語。
当時は、母親が違う兄妹の恋愛や結婚も今ほどタブーではありませんでしたが、それでも赦されない兄妹愛が障壁となった悲恋の物語です。
篁は父親が亡くなったときもかなり精神的に参ったらしく、母親孝行としても知られます。
冷徹なイメージの篁には、深い情愛もあったのです。
嵯峨天皇から篁への挑戦
ある時、頭脳明晰の誉れ高い篁に対して、嵯峨天皇が本当にそうなのかどうか試してみたいと思ったそうです。
天皇は、「無悪善」をいう落書きを読むようにと篁に命じました。
しかし、彼はなかなか答えようとしません。
さらに天皇が強要すると、篁は渋々
「悪さが(嵯峨)無くば、善けん」(嵯峨天皇がいなければよいのに)
と読んだのです。
嵯峨天皇は、篁本人がこの落書きを書いたから読めたのだ、と非難します。
すると篁は「私はどんな文章でも読めるのです」と弁明。
ならば、ということで天皇は新たに「子子子子子子子子子子子子」を読めと篁に迫ります。
すると篁は、
「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いて自分の言葉を証明したのでした。
さらに漢詩で試した嵯峨天皇
唐からやって来た漢詩集『白氏文集』は誰の目にも触れず、御所に秘蔵されていました。
嵯峨天皇は、まだ誰も見たことのない白居易(唐代中期の高名な詩人)の詩を一文字だけ書き換えて小野篁に見せます。
漢詩の天才とされた篁の反応を試したのです。
すると、篁はその一文字だけを添削して天皇に返却したといいます。
漢詩の天才・篁の名前は、中国の白居易本人にも届いており、篁が遣唐使に任ぜられたと聞いた白居易は、彼に会うのを楽しみにしていたのだそうです。
きょうのまとめ
流罪にされながらも朝廷が放っておけなかったほど、優秀な学者であり官僚だった小野篁。
人々は彼を恐れながらも憧れ、彼の和歌や漢詩を愛しました。
小野篁とは
① 学者、法律家、詩人、歌人としても優れ、政務能力にも長けた朝廷の官吏
② 遣唐使に対する辛辣な意見を表明する反骨精神を持つ「野狂」
③ 頭脳明晰でありながら、家族思いの情に厚い人物
でした。
ある時は熱い反骨精神を持つ優秀官吏、ある時は地獄で閻魔大王を補佐する冷徹な不思議の人、そしてまたある時は情に厚いやさしき平安貴公子。
小野篁は知れば知るほど興味の尽きない人物です。
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