吉田松陰と聞くとどんなイメージをお持ちですか。
義務教育の教科書には名前がちらっと出てくるくらいで、詳しく習わなかったかもしれません。
幕末の動乱に大活躍したのは松下村塾で学んだ松陰の弟子たちでした。
松陰の妹・文の夫でもある久坂玄瑞、高杉晋作など四天王と呼ばれる弟子を中心に攘夷運動を行ってきました。
直接の弟子でなくても、松陰の教えを元に行動を起こし、日本の大きな転換期に活躍した人々も少なくありません。
そんな優れた指導者として名を残した吉田松陰とはどのような人物だったのか、
解説いたします。
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吉田松陰とはどんな人?
- 名前:杉 寅次郎
- 出身地:萩(現在の山口県)
- 生年月日:1830年
- 死亡年月日:1959年10月27日(享年30歳)
- 明治維新の精神的指導者。私塾の松下村塾で多くの若者に思想的影響を与えた指導者。
吉田家に養子入りし、吉田寅次郎となる。号は松陰、二十一回猛子
吉田松陰の年表
1830年(1歳)長州萩城下本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。
1834年(5歳)叔父の吉田大助の養子となる。兵学を修める。
1838年(9歳)藩校・明倫館の兵学師範に就任。
1850年(20歳)西洋兵学を学ぶため九州に遊学する。宮部鼎蔵と知り合う。
1851年(21歳)宮部鼎蔵と共に東北遊学。出発日の約束を守るために脱藩。
1852年(22歳)脱藩の罪で藩士の身分を取り上げられる。
1854年(24歳)ペリーが下田に来航。黒船に乗り込もうとし、萩の野山獄に繋がれる。
1855年(25歳)出獄を許され、杉家にて幽閉処分となる。
1857年(27歳)叔父・玉木文之進が主宰していた松下村塾を引き継ぐ。
1858年(28歳)日米修好通商条約が締結。倒幕に向け動こうとし、再び野山獄へ入る。
1859年(29歳)安政の大獄で目を付けられる。
江戸に檻送され、伝馬町牢屋敷に投獄される。10月27日斬首刑となる。
松下村塾での教育方針
松下村塾は吉田松陰の叔父・玉木文之進が開いた塾で、それを松陰が引き継ぎました。
松陰が杉家で幽閉処分となっていたとき、その部屋で開かれたのが松下村塾です。
松下村塾の特徴は、身分に関係なくやる気があれば誰でも学べることです。
当時、藩が設立している教育機関・藩校はありましたが、藩士(藩に仕える武士)の家系の子どもしか通うことができませんでした。
しかし、松陰は誰でも学べる機会を与える必要があると考え、身分に関係なく入塾を許可しました。
講義の内容は、
・孟子の考え方
・倫理学
・地理学
・歴史
・経済
・芸術
まで幅広かったようです。
形式は塾生同士が討論したり、それぞれが自分の得意分野で講義をしたりと、
当時の教育では珍しい方法を取り入れていました。
松陰は先生でありながら、塾生と一緒に学ぶという姿勢をとっていました。
討論は塾生が中心となって行い、討論が盛り上がれば夜通し行われることもありました。
どんな塾生がいた?
四天王と呼ばれるのは、以下の4人です。
- 久坂玄瑞
- 高杉晋作
- 吉田稔麿
- 入江九一
久坂玄瑞は松陰の妹・文の最初の夫でもあります。
久坂玄瑞と高杉晋作は幼なじみでライバル心があったため、松下村塾でも切磋琢磨し、松陰の遺志を継ぐ要の2人となりました。
吉田稔麿、入江九一はともに、文の友人のお兄さんです。
稔麿は言葉数は少ないが、頭の回転が早く優秀、九一は行動力が誰よりも備わっていると松陰は評価しています。
4人とも松陰の教えをしっかりと心に刻み、松陰の死後も松下村塾を盛り上げていきます。
しかし4人とも志を遂げることなく、明治維新前に亡くなってしまうのです。
松下村塾の他の門下生には、伊藤博文、品川弥次郎、山県有朋、野村靖(九一の弟)など
明治維新で活躍する人物もいました。
吉田松陰が大切にしていたもの
行動主義
松陰の考え方の元となったのが孟子です。
孟子の名言がそのまま松陰の信念となっています。
(意味:誠の心を尽くして行動しても、心を動かされない者はこれまで見たことがない。誠の心をもって行動すれば、必ず人の心は動くものだ。)
この名言通り、いつもどんな人に対しても自分の誠の心で教育に励み、意見を言い、行動しました。
学問は実践して初めて習得できると考えており、人間たる者「行動第一であれ」
と塾生に言っていました。
志
塾生になるために松下村塾を訪ねてきた人に必ずしていた質問があると言われています。
文字を読めるように、何かの知識を得にきたという人には、それらは自分で学べる、と松陰は告げたそうです。
つまり、松下村塾では知識を得るだけではなく、塾生同士が刺激し合って、自分の使命を達成することが真の目的であるということです。
松陰は常日頃から塾生たちに「己の志」を見つけるように指導してきました。
志がなければ、何も行動を起こすことはできないからです。
松下村塾での学びを通して、自ら志を見つけ、それを実行することが大切であると説いています。
号・二十一回猛子から読み取る松陰の生き様
号・二十一回猛子の意味
号とはペンネームのようなものです。
吉田松陰の号、「二十一回猛子」。
名前のようでもないし、どのような意味があって二十一回猛子の号をつけたか見ていきます。
結論としては、
「自分の名前を分解して、暗号のように組み合わせを変えたもの」
です。
二十一は松陰の元々の姓である「杉」の「木」の部分を分解して「十」と「八」で18、「三」で3、合計すると21になります。
吉田は士(11)と十(10)で21。口と口で回。
松陰の通称は寅次郎でした。
「寅=虎」で、虎はどう猛であることから「猛子」と名付けたと言われています。
つまり、
杉と吉田の文字から「21回」、必ず猛を奮い、誠を尽くして全力で物事を実行する、
という松陰の固い意志を表しています。
実際に松陰が執筆した「二十一回猛子の説」では、自身の「猛」として以下の3つを挙げています。
- 東北旅行のために脱藩したこと
- 藩士の身分を剥奪されてもなお、藩主に意見したこと
- ベリー来航時の密航
きょうのまとめ
吉田松陰についていかがでしたでしょうか。
簡単にまとめると、
① 松下村塾は、身分に関係なくやる気があれば誰でも学べる先進的な塾だった
② 松下村塾の塾生には、明治維新で活躍する伊藤博文などがいる
③ 「行動」と「志」を大切にしていた
吉田松陰は家族にも弟子にも、幕府の役人にも、獄中の囚人たちにも、いつも一生懸命、誠を尽くして人に向き合うことを当たり前としてきました。
国禁である異国への渡航を試みたり、攘夷や倒幕の過激思想を持っていたり、と
それだけ聞くと、とんでもない人だと思うかもしれません。
しかし、松陰の志の根本は他の幕末の志士たちと同じだったのです。
「日本という国をもっと良くしたい」
そのためには攘夷、倒幕が必要だった、というのが松陰の考えでした。
松陰の死後、師匠の考えに追随した弟子たちは、自らが考えた方法で道を歩んでいきます。
四天王は遺志を継いで、戦うことをやめず、残念ながら戦死。
他の弟子たちは、明治維新になってから日本の政治の中心で新しい国づくりを行いました。
どちらが優れている、ということではなく、どの弟子たちも国の転換期に必要だったといえるのではないでしょうか。
吉田松陰はそのマインドをしっかりと伝えたという点において、
歴史に残る指導者と言われています。
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