新選組はキャラクターの宝庫のような集団です。
原田左之助とはどんな人物だったか気になるところですが、
どうやら、幹部隊士の中でもひときわ個性の強い人物だったようです・・・。
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原田左之助はどんな人?
- 出身地:伊予国松山 (現在の愛媛県松山市)
- 生年月日:1840年
- 死亡年月日:1868年5月17日(享年29歳)
- 新選組での役職:十番組組長、小荷駄奉行
- 剣の流派:種田流槍術免許皆伝、(自称、種田宝蔵院流?)
- 愛刀:江府住興友 (コウフジュウ オキトモ)
- 墓:不明
- 上昇志向の強かった中間の若者だったが、新選組幹部として本物のサムライとなった。家庭を思いながらも息子と妻を残し、彰義隊の上野戦争に参加して戦死した。
原田左之助 年表
西暦(年齢)
1840年(1歳)
伊予国松山(現愛媛県松山市)足軽原田長次の嫡男として誕生
1854年~56年ごろ(15~17歳ごろ)
松山藩の中間となり、江戸三田の松山藩邸にも務める。
脱藩後、試衛館・近藤勇の元で食客となる
1863年(24歳)
近藤らと共に浪士隊に参加し、上洛。新選組幹部となる
1864年(25歳)
池田屋事件で17両の褒賞金を、
三条制札事件で20両の褒賞金を賜る
1868年(29歳)
甲州勝沼の戦いで敗戦したのち、
永倉新八と共に靖共隊を結成するが離脱。
江戸で彰義隊に参加して戦死(諸説あり)
原田左之助の生涯
主に新選組十番組組長として活躍。
近藤勇・土方歳三・沖田総司らとともに試衛館で汗を共に流した生え抜きの新選組結成メンバーでした。
「死損ね左之助」は松山から江戸へそして京へ
元々伊予松山藩の中間(雑役をした武家の奉公人)でした。
ある武士と喧嘩をして
と言われたので、怒って腹を切って見せたほどの短気ぶり。
傷は浅かったので命に別状はありませんでしたが、その腹につけた一文字の切腹傷から、
「死損ね左之助」と新選組内でアダ名されました。
谷三十郎から種田流槍術を教わり、免許皆伝の腕前。
松山や江戸藩邸に務め、やがて脱藩すると江戸の近藤勇道場・試衛館の食客となったのです。
近藤らと共に浪士隊として上洛。
新選組の創設メンバー、幹部隊士として常に第一線で活躍した猛者でした。
新選組幹部として活躍した後は仲間と別れ、最後は1人で
- 芹沢鴨暗殺
- 長州の間者・楠小十郎斬殺
- 大坂西町奉行所与力・内山彦次郎暗殺
- 池田屋事件、禁門の変
- 油小路事件
- 三条制札事件
など
主立った戦闘に必ず登場する原田の名前がその実力を示しています。
十番隊という殿軍を任された原田は、一番隊の沖田総司と共に副長・土方歳三に信頼されたことの証しです。
鳥羽・伏見の戦いや甲陽鎮撫隊としては近藤・土方と共に戦いましたが、その後、考え方の違いから袂を分かちます。
永倉新八と共に靖共隊を作り、のちに永倉とも別れて江戸の彰義隊に参加しました。
上野戦争でのケガが元で、1868年5月17日に死亡。
享年29。
印象的なエピソード
気分屋左之助
若い頃の原田は勝ち気で生意気。
中間奉公の頃、郷里松山でよく相手にしてやり、慕われた奉公先の親戚筋の子供がいました。
しかし、松山で再会した際、少し立場が上の若党になっていた原田は、会っても知らん顔をしていたそうです。
江戸三田の松山藩邸では、普段から反抗的だった中間の原田が泥酔して帰宅したため、先輩たちに縛られて猿ぐつわの上、水を掛けられる体罰を受けたこともあったそう。
西洋式の進軍に使う太鼓を腹にかかえ、フンドシ一つの裸でドンドン叩きながら道を歩くという奇行も目撃されました。
若い頃の原田は何を考えていたのか理解に苦しみます・・・。
新選組幹部になっても強気は相変わらずで、
と酒を飲んでは切腹痕を自慢。
これを元にして○に一文字を入れた家紋を作ってしまったほどです。
ふた言目には大声で
と叫んだという短気者。
ストレートな性格で、思ったことがすぐに口に出てしまいます。
長州の間者・楠小十郎を斬り殺した時に
と言って笑い、あとで近藤にこっぴどく叱られたとか。
三条橋制札事件と坂本龍馬暗殺事件
1866年、三条大橋西詰北に掲げられた幕府の制札が引き抜かれるという狼藉が繰り返されました。
その警備にあたった新選組が犯人の土佐藩士を捕縛したのが三条制札事件です。
原田と彼の十番隊が活躍し、事件の褒賞金給付記録の筆頭に二十両をもらった原田の名前が残っています。
この活躍で、名前を土佐藩に印象づけることになった原田。
翌年の坂本龍馬暗殺では、当初彼が下手人に仕立て上げられましたが、この制札事件の恨みが原因だったかもしれません。
現在、原田による坂本龍馬暗殺説は否定されており、実行犯は京都見廻組である説が有力です。
美男で愛妻家・原田左之助の生存説
伊予松山藩の内藤素行が子供の頃に見た原田左之助はかなりいい男だったそうです。
新選組時代にも美男の声は高く、土方歳三と共に島原では女性に追い回されたものでした。
しかし、彼は新選組の幹部には珍しく、妾や愛人を囲ったりせず、まさという女性ときちんと結婚をし、非常な愛妻家だったのです。
1868年には新選組の仲間と別れ、永倉新八と一緒に結成した靖共隊からも離れました。
京に残した妻子が心配で江戸まで戻ったところ、新政府軍の警戒が厳しく先に進めなかったため、彰義隊に加わったのではないかと考えられています。
上野戦争で負傷した傷が元で亡くなったと言われますが、彰義隊に参加した時期が遅かったためか名簿に彼の名はなく、死亡の詳細も墓も不明です。
・原田は戦死せずに大陸へ渡り、満州で馬賊の頭目になってひそかに帰国した、
・日清戦争の時に日本軍に参加していた
などの逸話も残されているほど。
また、彼の故郷松山には、
ことが伝わっており、
原田の生存説はかなり根強いものであるようです。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。
原田左之助についていかがでしたでしょうか。
原田左之助とは?
簡単にまとめると
① 副長・土方に信頼された新選組のしんがり十番隊組長
② 中間時代から上昇志向の強かった短気で勝ち気な槍の遣い手
③ 女性に人気はあったが、妻に一途な愛妻家
と言えるのではないでしょうか。
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よろしければどうぞ御覧ください。