西郷隆盛が勝てないとわかっていた西南戦争をした理由

 

西郷隆盛は1877年9月24日、

西南戦争で銃弾を受け負傷し、切腹してその生涯を閉じました。

最期の言葉は「もう、ここらでよか」だったそうです。

明治維新の立役者であるはずの西郷隆盛が、なぜこのように死ななくてはいけなかったのでしょうか。

今回は西南戦争はなぜ起きたのかについて、簡単にご紹介します。

 

はじめから勝ち目のなかった西南戦争

西南戦争とは1877年2月から9月にかけて起こった、

西郷隆盛率いる薩摩軍による新政府への反乱のことです。

国内最後の内戦にして、最大の士族の反乱と言われています。

西郷軍3万人、そのうち1万3千が鹿児島私学校の生徒たちでした。

鹿児島私学校は国家の非常事態に役立つ人材を育成することを目的とし、西郷によって設立された私塾です。

士族の子弟に対する教育を行っていました。

そんな薩摩軍に対して、新政府軍の数は2倍の約6万人だったと言われています。

人数もさることながら、新政府軍には大砲や小銃といった武器があったため、圧倒的に有利でした。

薩摩軍が新政府軍に勝てないことは、はじめから誰もがわかっていたのです。

 

西南戦争が起こった理由

ではなぜ、西郷隆盛はそんな無謀な戦いに挑んだのでしょうか。

西郷隆盛はむしろ、はじめは戦争に消極的だったのです。

明治六年の政変

1873年(明治6年)、西郷隆盛は征韓論に敗れて中央政界を去ることになりました。

征韓論とは武力によって朝鮮の鎖国排外政策を打ち破り、勢力を伸ばそうという主張です。

西郷の目論みは、国内にはなくなった士族たちの活動の場を、国外に見出すことであったと言われています。

しかし大久保利通や木戸孝允らに敗れ、西郷・板垣退助をはじめとする征韓派は一斉に下野しました。

この出来事は「明治六年の政変」と呼ばれています。

鹿児島に私学校を設立する

鹿児島へ戻った西郷隆盛は、隠居同然の暮らしをしていました。

しかし、西郷のところへは政府への反感を募らせる者たちが集まってきました。

当時、明治新政府は次々と”旧武士の特権”を奪っていきました。

そのため、日本各地で不平士族の反乱が次々と起こっていた時期だったのです。

そこで西郷は、私学校を設立したのでした。

私学校を、反政府に燃える青年たちの受け皿としたのです。

ですが西郷の思いとは逆に、生徒たちは反政府の中心的存在になっていきます。

西郷の作った私学校の生徒たちが蜂起するのではないか?という噂は、東京にまで届いていました。

そこで川路利良かわじとしよしという人物が、鹿児島へ20数名の警察官をスパイとして送り込みました。

西郷隆盛暗殺計画!?もはや士族の不満を抑えられず・・・

しかし、それらのスパイたちは、私学校の生徒によって捕らえられてしまいます。

さらにスパイは「西郷暗殺計画」を自供したとされています。

これは私学校側のでっち上げという可能性もあるようです。

これを受け、政府への蜂起を訴える私学校の幹部に対し、西郷はやめるように説得しています。

はじめ西郷隆盛は、戦う気などなかったようです。

ですが私学校の急進派たちは鹿児島県内にある政府の火薬庫を襲撃し、武器や弾薬を奪うという行為に出ます。

もはやこれ以上、士族たちの不満を抑えることは不可能と思ったのか、

西郷隆盛は一緒に戦うことにしたと考えられます。

結局西郷は士族たちの不満を一身に背負い、軍を率いたのです。

 

きょうのまとめ

今回は西南戦争が起こった理由について、簡単にご紹介しました。

西郷隆盛は、

① 最初は戦う気などなかった

② 暗殺計画があったという説もある

③ これ以上、士族の不満を抑えることは不可能と悟ったため軍を率いた

と言えるのではないでしょうか。

勝てないとわかっていても戦う西郷の気持ちは、どのようなものだったのでしょうか・・・。

他にも西郷隆盛についてはたくさん記事を書いています。

興味の湧いた方は、ぜひご覧ください!

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