阿部正弘
といえば、瓢箪鯰(ヒョウタンナマズ。瓢箪で鯰を押さえつけるようにとらえどころがない)
ともいわれ、
これから幕末へという難しい時代に調整型リーダーとして幕政を引っ張った人として有名です。
今回はそんな彼の”瓢箪鯰”ぶりと、
彼の率いた安政の改革
さらには、彼の子孫はどのような歴史を歩んだのかについて紹介します。
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感応寺事件裁定
それは約270年の江戸時代の中で
特にユルユルで知られる”大御所時代”にまで話はさかのぼります。
当時まだ若く、寺社奉行を務めていた阿部正弘。
そこにとんでもないスキャンダルの噂が舞い込んでまいります。
感応寺
という寺に大奥の女中らが何かと口実をつけては紛れ込み、そこの美僧らとここには書けないようなことをいろいろと繰り返していたというのです!
正弘はさっそく捜査に入り、突き止めます。
が、ここが正弘らしい。
寺方の主犯格だけを処罰し、寺を破却しますが、
大奥の処分はほとんど一部だけ。
これで幕府方のいろいろなものが傷みません!
正弘は将軍家慶にも目をかけられるようになりました。
攘夷派・開国派、どちらの顔も立つように
ペリー来航など
当時いよいよ激しくなってきた外国の圧力に国内は攘夷派
と
開国派に大きく割れておりました。
正弘は双方とうまくバランスを取りながら立ち回ってゆくのですが、
日米和親条約の締結をめぐって、
攘夷派の重鎮水戸斉昭がプンプン!怒って海防掛参与を辞職してしまうのです。
するとここが正弘。
たなごころを返したように条約調印の功労者を次々にクビにしてしまいます。
当然これで黙っていられないのが開国派!
井伊直弼を中心に猛反発いたします。
すると今度は、正弘自身老中首座を降りたかと思うと、かわりに「蘭癖」大名として知られた堀田正睦に後を継がせることとしました。
安政の改革
江戸の三大改革に比べると一見地味ですが、画期的で実りの多いこともたくさんやっております。
まず、蕃書調所、講武所、長崎海軍伝習所といった洋学の研究所や新たな軍隊の養成所を次々と設置いたしました。
・講武所は日本陸軍
・長崎海軍伝習所は日本海軍
の前身となります。
そして、この改革によって新たに抜擢された人材!
正弘は身分の垣根なく有能の士を募り、
・川路聖謨
・江川英龍
・岩瀬忠震
・水野忠徳
・勝海舟
・永井尚志
・ジョン万次郎
など、とキラ星のようです。
阿部正弘の子孫
正弘には男児がたくさんいましたが、
いずれも早く亡くなってしまいました。
替わりに正弘の兄の子正教を養子に引き取り、後を継ぐことになります。
その後、正方、正恒と継いでゆきますが、
この正恒に正弘の娘寿子が嫁ぎます。
こうして、正弘の子孫が残っているのですね。
正恒と寿子の間に
兄の阿部正直、弟の酒井忠正
阿部正直は”雲の伯爵”とよばれた有名な気象学者。
富士山頂に発生する雲をたえず観測し、
当時急発展していた写真や映画技術で記録しました。
酒井忠正は貴族院議員で、農林大臣も務め、
戦後は横綱審議委員の初代委員長、日本プロレス協会の初代会長を歴任。
さらには日本競馬会の地位向上に努めていたようです。
この忠正のひ孫が忠輝さんで、ご本人乗馬に大変活躍され、今は乗馬クラブ「エクインターナショナル」を経営なさっております。
きょうのまとめ
正弘は人の話を良く聞きますが、自分の意見を述べることがほとんどありませんでした。
ある人がそれはなぜかと尋ねますと
「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる。
だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い、悪しきを捨てようと心がけている」
と笑いながら答えたといいます。
① 阿部正弘は寺社奉行時代に感応寺事件に”絶妙”な裁定をし、頭角を現した
② 阿部正弘は幕政のバランスをうまく取るため、開国派と攘夷派の間をいろいろと揺り動いた
③ 阿部正弘の子孫は気象学者・政治家・乗馬クラブ経営者として多大な業績を残している
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