内憂外患。
これから幕末という混迷の時代にあって確かな大局と柔軟さ、したたかさをもって幕政を指導しました。
アメリカと日米和親条約を結んだり、外様大名や朝廷を幕政に参画させたり、
攘夷派・開明派など意見のまったく違う間をあちら、こちら、
といろいろ取り持ちながら政権運営をしたり、
そのかなり色濃い協調路線が幕府の権威権力をますます失墜させたのは事実ですが、
一方、
「長く生きていれば時代はああならなかったのではないか……」
ととても惜しまれる声もたくさん!!
そんな早くにして亡くなってしまった逸材。
阿部正弘にささやかれる死因についていろいろと語ってまいります。
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阿部正弘、急死の原因いろいろ
安倍正弘が急死したのは、ペリー来航(1853年)以来急務となっていた
安政の改革の主導的役割として着手していた真最中、1857年。
正弘満37才の夏の盛りです。
年齢としてもいよいよこれからという時に……。
いったい彼に何が起こったのでしょう。
死因①肝臓ガン
今のところ、彼の死因の最有力と見られております。
正弘さんはその写真にもわかる
ぽっちゃりさん。
長時間の正座が相当苦痛だったとか。
それでも人とじっくり向き合う人柄だったからか、対談の時はそれに耐えて正弘の座った後の畳は汗で湿っていた、
といわれます。
いろいろと肝臓への負担が思いやられます。
その上、この人は日本行政の実質トップ
しかも、
時は黒船来航・将軍継嗣問題などといった頭の痛くなるような超重要難題が山積み。
従来の慣習を大いに破る改革に取り組み、
それでいて国内の攘夷派・開明派などいろんな主義主張や立場の人たちの間に入っては懐柔したり、あっちにこっちにとバランスを取ったり、あるいは、彼らの意見をうまく吸い上げて改革の養分としたり。
ちなみにこちらが正弘が間に入らなければならなかった主な顔ぶれです。
ペリー、水戸斉昭、島津斉彬、井伊直弼……。
はい。もちろんそれだけではありません。
朝廷、三百諸侯、国中三千万の民、
これらを心の中で日々にきちんと消化させるには
それ相当の”お酒”が必要だったのでしょうか(正弘の晩年は相当な大酒の話がいくつも漏れ聞こえます)。
ちなみに”糖尿病”や”過労”もその死因として疑われております。
死因②腎虚(じんきょ)
一方で阿部正弘の死因にはこんな説もあります。
腎虚。
すなわち、男として”がんばりすぎ”です。
江戸向島の長命寺
に名物の桜餅屋がありまして(今もほぼ同じ場所で営業しているようです)、
そこに
おとよ
というずいぶんな”器量よし”さんがいたようです(三代豊国の「江戸名所百人美女」という錦絵シリーズに描かれています)。
正弘さん一目ぼれしてしまったようですね(当時正弘満35、おとよ16ぐらい)。
そしてとうとう、そのまま妾さんにしてしまうんですね。
さあ、それから。
ということだそうです。
死因③暗殺
時代が時代でありますし、
人々や政治のバランスを取るために
苦い決断
をいっぱいしなければならなかったですし、
不正を取り締まったりもしました。
なので、悲しいかな、
恨みに思う人、
消した方が早いとみなす人、
がそこいらじゅうにいっぱいいたことでしょう。
しかも、壮年の盛りに急死ですから、
そう噂されるのは歴史の必然です。
きょうのまとめ
いずれにしろ、亡くなる直前ごろはかつての見る影もなくかなりやつれていた
といわれております。
前任の水野忠邦
後任の井伊直弼
いずれ改革のやり方は三者三様。
しかし、これほどの時代をトップとして背負うというのは彼ら三人の行く末を見るだけでもやはり並大抵ではなさそうです。
① 阿部正弘死因最有力と目されるのが肝臓ガン
② 阿部正弘は腎虚で亡くなったという説がある
③ 阿部正弘は暗殺されたという説がある
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