幕末の最高の名君と呼ばれた
薩摩藩主・島津斉彬は1858年7月16日に急死しました。
この死があまりにも、政治的なタイミングが良すぎることから暗殺説があります。
今回は、島津斉彬暗殺説について調べてみました。
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島津斉彬は暗殺されたのか?
島津斉彬の暗殺説があるのは、その急死のタイミングにあります。
当時も島津斉彬の死により、利益を得た人間が多いと考えられたのです。
それが、島津斉彬暗殺説となって広がっていきました。
島津斉彬の急死のタイミング
島津斉彬は、将軍後継問題で井伊直弼と対立していました。
雄藩連合によって幕政に介入しようとする島津斉彬と、徳川家を支え続けてきたという自負もった直参の井伊直弼を中心とする勢力との対立です。
将軍後継で一橋慶喜を推していた島津斉彬は、井伊直弼にその思惑を阻止されます。
それに対し、薩摩藩5000の兵を率いて京に向かおうとした矢先の死でした。
もし薩摩藩が武力により朝廷に対し圧力を見せていたら、どうなっていたでしょうか?
幕府にとって、そして幕府との決定的な対立を回避したかった薩摩藩内の勢力にとって、斉彬の死は都合が良かったのです。
まったくもって、暗殺ではないか?
と思えるほどのタイミングの良さでした。
島津斉彬の死因は?
島津斉彬は死を迎えたその日、特に不調を訴えることなく軍の視察までこなしています。
しかし、その日に食べた魚が原因で一気に体調を崩します。
今に残る史料では、下痢と高熱が続き、心臓も弱ってきているという当時の医師の「カルテ」が残っています。
島津斉彬はコレラではないかと診断されました。
しかし、当時コレラは薩摩で流行っていたわけではありません。
それが、また暗殺説を裏付けるかのような話につながっていくのです。
砒素中毒の症状も高熱、下痢、心臓が弱るなどの症状がでます。
こんなところからも、砒素毒を盛られたという説がでてきます。
しかし、コレラでなくチフスや他の病気である可能性もあり、食あたりであっても人は死にます。
井伊直弼?
状況が非常に怪しく「暗殺」を疑うような状況であったことは確かです。
島津斉彬が京に兵を送り込み、その武力を背景に朝廷工作を行えば、将軍後継問題で大逆転もありえたかもしれません。
その点で、政敵であった井伊直弼にとって斉彬の死は非常に都合のいいものです。
しかし、井伊直弼には暗殺を行うような手段が無かったでしょう。
弟、久光?
そして、薩摩藩内にも黒幕ではないかと噂された人物がいました。
腹違いの弟である島津久光です。
お油羅騒動で、後継者を争った彼が兄を殺したのでしょうか。
しかし久光には兄である斉彬を殺す理由が全くありません。
まず、斉彬と久光の兄弟仲は悪くないのです。
お油羅騒動は、父・斉興と斉彬の呪詛合戦から始まる争いででした。
今でも呪詛の史料が鹿児島の博物館に残っています。
斉彬の排除を狙った、斉興は生きている間はとにかく、藩主の地位を渡す気はなかったでしょう。
とにかく、性格的にもこのふたりは合わなかったようです。
しかし、久光を跡継ぎにしたいといっても、すでに斉彬は将軍にお目見えしているのです。
そのような人物を藩主せず、弟を藩主にすれば、幕府に対し嘘の報告をしたことになります。
斉興のできるのは、とにかく自分が生きている間は藩主の座を渡さないか、呪詛で殺すかしかなかったわけです。
そんな争いから、実は久光もお油羅も関係なく、二人がかかわっていた史料はありません。
その後、斉彬は久光の息子を養子にして藩主として後継者にしています。
その際には久光が藩主になることを断ったとも伝わっています。
暗殺の黒幕として疑わしそうな人物はいますが、証拠はなにひとつありません。
斉彬は病死したと考えるのが一番合理的な結論でしょう。
タイミングの良さは偶然としかいえないのです。
きょうのまとめ
今回は、島津斉彬の暗殺説について調べてみました。
彼は暗殺ではなく、普通に病死したことが濃厚です。
暗殺の証拠はなにもありません。
いかがでしたでしょうか。
簡単にまとめると
① 島津斉彬は将軍後継問題で幕府中枢と対立していた
② 島津斉彬の急死は暗殺を疑われるようなタイミングだった
③ 島津斉彬の暗殺を証明する証拠はなにもない
と言えるのではないでしょうか。
このサイトでは他にも島津斉彬についての記事がありますので
是非ご覧下さい。
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