日本の伝統芸能「能楽」の創始者は観阿弥です。
彼の息子は能楽を大成しました。
その人の名は世阿弥。
一体どんな人物だったのでしょうか。
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世阿弥はどんな人?
- 出身地:未詳
- 生年月日:1363年(推定)
- 死亡年月日:1443年(推定)8月8日(享年 81歳か)
- 室町時代に父親の観阿弥の後を継いで猿楽(能楽)を大成し、芸の伝書『風姿花伝』を著した人物。晩年は流刑となり苦労をした
世阿弥年表
西暦(年齢)
1363年(1歳)大和猿楽師の観阿弥の息子として誕生
1374年(または1375年)(12歳)今熊野の猿楽能に出演。将軍・足利義満の目にとまり、以後寵愛を受ける
1384年(22歳)父・観阿弥が静岡浅間神社で演能した後、その地で死去。
1393年(31歳)このころ世阿弥の長男・元雅誕生
1400年(38歳)このころ能楽の精神や奥義を著した能楽論『風姿花伝』が成立
1408年(46歳)足利義満死去。4代将軍足利義持は田楽能の増阿弥を寵愛して世阿弥を冷遇する
1422年(60歳)観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、出家
1428年(66歳)将軍・足利義持が死去。第6代将軍に足利義教が就任。義教は世阿弥の養子・音阿弥を寵愛し、世阿弥を冷遇。
1429年(67歳)世阿弥の御所への出入りが禁じられる。代わりに世阿弥は地方への能楽巡業を行う
1432年(70歳)長男の観世元雅が伊勢安濃津にて客死
1434年(72歳)世阿弥が佐渡に配流される
1443年(81歳)この頃死没したと言われる
世阿弥の生涯
世阿弥は能を演じる者として恵まれた家に生まれましたが、彼の生涯がずっと安楽だったわけではありません。
誕生から将軍・足利義満の庇護と影響
1363年、世阿弥は大和国周辺で活動していた猿楽役者・観阿弥の子として生まれました(生年1364年説もあり)。
世阿弥の本名は元清です。
大和国(現在の奈良県)の人気の猿楽一座・観世座は、1375年、京都の新熊野神社で猿楽を演じました。
そこで、能を初めて見物した第3代将軍足利義満は、観阿弥の芸と当時12歳の美少年・世阿弥の演技の虜となります。
以降、義満は観世座の強力なパトロンとなり、世阿弥を寵愛しました。
1384年、観阿弥の没後に一座を継いだ22歳の世阿弥は、父が築いた猿楽能に加え、貴族社会に好まれた幽幻美を取り入れた「夢幻能」でさらに芸を発展させています。
1399年、世阿弥率いる観世座は、一条竹ヶ鼻で足利義満の後援による3日間の勧進猿楽を開催。
世阿弥は当時を代表する一流の演者として認められていました。
将軍義満の死後と苦労
しかし義満は、晩年には優雅な「天女舞」で人気を博した田楽の犬王(道阿弥)を寵愛します。
義満亡き後は、第4代将軍・足利義持も猿楽よりも田楽を好みました。
6代将軍・足利義教は猿楽を好み、盛大な公演が行われました。
しかし、将軍は世阿弥よりも世阿弥の養子で独立していた音阿弥をひいきにしました。
一時は世阿弥の跡継ぎとして期待されていたほどの音阿弥は、非常に優れた演者だったのです。
一方、将軍・義教は世阿弥に対し
・1429年、仙洞御所への出入りを停止
・1430年、醍醐清滝宮の楽頭職(猿楽主催権)の剥奪
など冷遇しました。
さらに1432年、世阿弥の跡継ぎの観世大夫元雅が伊勢で死没。
観世座は破滅寸前となりますが、音阿弥が一座を引き継ぐことになりました。
こうして観世座は再び将軍の後ろ盾を得るのですが、世阿弥だけは何らかの理由で将軍の怒りを買い、71歳という高齢で佐渡へ流罪となりました。
1441年に義教が暗殺されると、京都大徳寺の一休和尚の尽力でようやく彼の配流が解かれました。
世阿弥は1443年に81歳で亡くなったということですが、その日付だけが分かっており、いつの年にどこで亡くなったのか正確にはわかっていません。
世阿弥の能とは何か
能楽は、今も日本を代表する舞台芸術です。
物まねや滑稽芸ではない点で猿楽や狂言とは違い、ストーリー性があります。
特徴は「全てがとてもシンプル」なこと。
舞台には舞台セットも小道具も幕もありません。
客席と舞台を隔てず開かれた空間の中で、シンプルな謡・囃子と、余計なものをそぎ落とした動きと舞いでストーリーが表現されます。
世阿弥の能は、武家や貴族の人々に好まれたという高尚で神秘的な「幽玄」が表現された「夢幻能」と呼ばれるものでした。
『風姿花伝』など伝書と呼ばれる能芸能のための能楽論を多く書き残した世阿弥ですが、
・『高砂』
・『実盛』
など現在でも人気のある演目作品を多く生みだしています。
能の奥義から世阿弥の名言3選
『風姿花伝』や『花鏡』など世阿弥の手による著作は、もともと観世流の一族のみが触れる事が許されていた、能楽の奥義書でした。
現在では現代語や外国語にも訳され、著作を通して誰でも世阿弥の芸術に対する姿勢や美学を知ることができます。
それらの中から現代でも耳にされることの多い名言をご紹介しましょう。
名言①「秘すれば花なり」
秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず
(秘めるからこそ花になる。秘めねば花の価値は失せてしまう)
各家に継承される芸の秘伝は、種明かしをすれば深遠なものではないかもしれません。
しかし、誰も気付いていないという珍しさや意外性こそが、素晴らしい芸につながり、その道の花、つまり秘伝になるという意味です。
名言②「初心忘るべからず」
実は、単純に「初心のころの初々しい気持ちや未熟な部分を忘れて稽古を怠ってはならない」と意味したわけではありません。
是非の初心忘るべからず
(未熟だったときの芸も忘れることなく、芸を向上させていくこと)
時々の初心忘るべからず
(その年齢にふさわしい芸に挑むそのときどきの初心や未熟さを忘れてはならない)
老後の初心忘るべからず
(老年期になって初めて行う芸にも初心があり、年齢を重ねたからといって完成したと慢心してはいけない)
世阿弥は、能楽にはその時々の旬の演技や花があることを理解し、それぞれの旬に初心に帰って挑むことを教えているのです。
名言③「時分の花ではなく真実の花」
時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかる心なり。ただ、人ごとに、この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこのころの事なり
(若い時の美しさは一瞬のこと。新人という珍しさによる人気はすぐに消えてしまうものなのに、実力で名人に勝ったと思い込むのは「真実の花」という本当の自分の魅力からさらに遠ざかってしまうおろかなことだ)
美少年と呼ばれ、将軍に寵愛されていた幼いころから長年能楽に打ち込んできた、世阿弥ならではの言葉です。
世阿弥の墓所
世阿弥の墓は観阿弥の墓と共に京都の大徳寺真珠庵にありますが、参拝はできません。
実はもう一箇所2人の墓参りをすることのできる場所があります。
それは高野山の奥の院。
豊臣秀吉や織田信長など多くの戦国大名の墓とともに、観世家累代の墓があります。
有名武将たちの墓に並んで日本の歴史に名前を刻み、能文化の礎を作った観阿弥と世阿弥たちを祀る墓もそこに佇んでいるのです。
<高野山奥之院 観世家墓所:和歌山県高野町高野山550>
きょうのまとめ
簡単なまとめ
世阿弥とは、
① 観世座を率い、猿楽に「幽玄」の世界を加えた能楽の大成者
② 将軍足利義満の寵愛を受けて華やかに活動したが、義満の死後は冷遇され佐渡島に配流されてしまった無念の人
③ 能楽の理論や美学を『風姿花伝』をはじめとする多くの伝書にした著者
でした。
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