山岡鉄舟は、幕末に江戸無血開城に大きな貢献をし、幕臣でありながら、明治維新後には明治天皇の剣術師範・警護主任などを任された侍従を務めました。
そんな彼の子孫、そして子孫以外に残した興味深い品々をご紹介しましょう。
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山岡鉄舟の両親と子孫
山岡鉄舟は武芸に厳しい家に生まれ育っています。
先祖には剣豪がいた! 鉄舟の家族
山岡鉄舟の父親は、江戸の蔵奉行・小野朝右衛門高福、母は常陸国の神職の娘・塚原磯でした。
もともと鉄舟は、小野という苗字だったのですね。
さて、この母方の先祖に戦国時代の剣豪・塚原卜伝という人物がいます。
そんな影響もあったのかもしれません。
武芸に熱心だった家に育った鉄舟自身も剣の達人となったのです。
鉄舟は、この二人の間の4男として生まれています。
鉄舟の子孫
鉄舟は、山岡静山に忍心流槍術を学んでおり、師・静山の妹である英子と結婚しています。
小野姓だった鉄舟は英子と結婚して山岡家の婿養子となり、そこで山﨑という苗字を名乗ることになりました。
二人の間には直己という息子と、鈴子という娘がありました。
山岡直己は、父・鉄舟の死後に子爵を継ぎ、日露戦争では通訳官として従軍しました。
その息子であり鉄舟の孫の武男は、成川家に養子に出され、成川武男となりました。
そして、武男の息子、鉄舟の曾孫となるのが、成川勇治さんです。
2004年に84歳で埼玉県で亡くなられました。
鉄舟の娘の鈴子は、伊勢桑名藩の知藩事であり、官僚でもあった松平定教に嫁いでいます。
栄子という娘のほかに夫である定教の養父である定敬の四男・定晴が養子となってあとを継ぎました。
鉄舟には庶子がいた可能性も?
彼の政治的な功績や生き方に真面目さや誠実さを感じる人は多いでしょう。
しかし、実は鉄舟は、かなりの女遊びをした人でもあるのです。
彼の武士らしい清廉な生き方を知っていると、にわかには信じられないようなことですが、なんと
と、恐ろしいことまで豪語していたとか。
妻の英子に
「やめなければ子供を道連れにして自害します!」
とまで言われたそうです。
そんな生活をしていれば、彼には庶子があった可能性も高そうです。
ただ、それを辿る術はありません。
鉄舟が子孫以外に残した意外なモノ
禅・剣・書の達人といわれた山岡鉄舟は、その交友範囲も広く、私たちが知っている驚くような品々を残しています。
ご紹介しましょう。
武士道
山岡鉄舟は1860年に『武士道』という文章を書いています。
その中に
「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎これを名付けて武士道と云ふ」
とあります。
鉄舟は「武士道」という言葉の名付け親でした。
この文章の中で、鉄舟は
と言っています。
よく知られた「武士道」という言葉が、山岡鉄舟によるものだとは興味深いですね。
また、幕末という武士が無くなろうとしている時代になってこの言葉が生まれたのは、皮肉でもあります。
味付けのり
明治天皇の付き人をしていた鉄舟は、1869年、明治天皇から京都行幸の時のための手土産について相談を受けました。
そこで鉄舟は、山本海苔店の二代目天守山本徳治郎に話をしました。
徳治郎は商人でしたが、千葉周作道場の門下生として、同門の鉄舟とは友人関係にあったのです。
話を受けた徳治郎は苦心して味付けのりを創案。
これをきっかけに山本海苔店は宮内省の御用達を賜ることになりました。
山本海苔店には鉄舟の筆による封函シールをはじめとする書が今に伝わっています。
忠七めし
鉄舟の実家の知行地だった埼玉県小川町の割烹旅館・二葉には、彼が好んだ料理が伝わっています。
鉄舟がある時、二葉の主人である八木忠七に
と難しい注文をしました。
そこで、考えられたのがこの「忠七めし」。
米飯に海苔、薬味ネギ、ワサビ、ユズなどを散らして、カツオだしをかけたものです。
剣・禅・書が得意だった山岡に因み、剣はワサビ、禅は海苔、書はユズで表現されました。
二葉の看板は鉄舟の揮毫によるもので、現在二葉旧館は有形文化財となっています。
あんパン
さらに鉄舟の食べ物の逸話が続きます。
明治維新より前からパンの木村屋の初代・木村安兵衛は山岡鉄舟と、剣術を通じて知り合っていました。
維新後1874年、銀座煉瓦街であんパンを試食した鉄舟が、西洋のパンとは違う木村屋の新しい味に惚れ込みました。
当時明治天皇の付き人だった鉄舟は、翌年4月4日にそのおいしいあんパンをぜひにと、水戸藩下屋敷で明治天皇に献上。
天皇と皇后はそれを気に入ったのです。
「引き続き納めるように」
という両陛下の言葉を賜り、感激した木村屋は、献上した4月4日を「あんぱんの日」として記念日に制定しました。
あんパン献上の成功を喜んだ鉄舟は、「木村家」の看板を書いて贈っています。
それが、現在の木村屋銀座本店入り口に掲げてある看板です。
残念ながら本物の看板は関東大震災で焼失しましたが、鉄舟の揮毫が再現されたものとなっています。
書
山本海苔店、二葉旅館、木村屋など、達筆だった山岡鉄舟は、多くの書を残しています。
人から頼まれれば書くのを断ることはなかったそうです。
書いて与えた書は、生涯に100万枚とも言われますが、それに対して彼がお金を要求することはありませんでした。
ただ、謝礼金を申し出られると、素直に「ありがとう」と受け取ったそう。
そしてそれを無造作に箱の中にしまっておいて、お金に困った人が鉄舟の元へ相談に来ると、箱から出して与えたそうで、鉄舟自身はいつも貧乏だったとか。
彼の人柄がわかる逸話です。
きょうのまとめ
今回は、旧幕臣で明治天皇の侍従であった山岡鉄舟の家族や子孫、そして彼が遺した意外なモノたちをご紹介しました。
簡単なまとめ
① 山岡鉄舟の母方の祖先には剣豪の塚原卜伝がいた
② 鉄舟には2004年まで生存していた子孫がいた
③ 鉄舟は「武士道」という言葉の生みの親だった
④ 鉄舟は現代に残る味のり、ご飯、あんぱんなどの商品の成功に携わり、記念の書を残している
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