薩摩藩の前藩主、名君島津斉彬の弟・島津久光の家系図は?

 

幕末期に重要な役割を果たした大名の名を上げれば、薩摩藩の藩主・島津斉彬の名が上がります。

そして、彼の陰に隠れて目立ちませんが、腹違いの弟である島津久光も高い手腕をもった政治家でした。

お油羅騒動という世継ぎ問題がありましたが、斉彬と久光の兄弟仲は悪くなかったのです。

自分がいないときの外国船に対する対応は全部久光に指示に従えという斉彬の書いた文章もう史料として残っています。

開明化であり、薩摩藩の近代化、人材発掘な度で貢献した島津斉彬は急死します。

その後、息子を藩主として、西郷隆盛、大久保利通などの人材を活用して明治維新を道を進んでいったのが島津久光です。

今回は、兄の陰に隠れ気味な島津久光の家系図を調べてみました。

 

島津久光の家系図をみてみよう、九州の名門島津家

島津光久と兄の島津斉彬の父は島津斉興ですね。

島津久光は側室であるお油羅の方の息子で、島津斉彬は本妻の子です。

斉彬と父の斉興の仲は最悪とも言えるぐらいに悪く、それゆえにお油羅騒動と言うお家騒動もおきました。

では、斉彬、光久の父である斉興を産んだ島津家の家系図を辿って行きましょう。

鎌倉時代に薩摩に定着した島津氏

島津家が薩摩、つまり今の鹿児島県にやってきて支配地としたのは鎌倉時代になります。

このとき、島津家は二代目島津忠久で、時代は鎌倉時代1227年のことです。

島津家は二代目島津忠久から鹿児島に定着しますが、彼が無くなったのが1227年です。

ここから明治維新の廃藩置県が実施されるまで、薩摩の統治者であったのが、島津家となります。

内乱を繰り返しまとまらない島津家は戦国時代に突入して……

薩摩と言う土地は非常に特殊で在来の小領主後からが非常に強く統治が難しかったのです。

更に、島津家もどんどん分家ができてバラバラになって、分家で勢力争いを開始します。

島津家は、内紛、内乱でどんどん戦闘民族にでもなったのでしょうか?

まず、島津家は分家が多いのです。

形の上で薩摩の支配者となった島津忠久からを初代とします。

そこから10代目まで島津家は分裂しまくります。

分家を作りまくります。

若狭島津家、越前島津家、伊作島津家、総州島津家、奥州島津家、薩州島津家、豊州島津家、相州島津家の合計8家です。

これに、本家を合わせて9家の島津家ができます。

室町時代から戦国時代にかけて、島津家同士で薩摩の統一をめざし戦闘頻発します。

とくに、総州島津氏と奥州島津氏が戦闘状態が足利幕府の仲介まで招く事態となります。

そして、足利幕府の影響力も低下していき、本格的な戦国時代に入ると、島津家同士の血で血を争う内乱は止まらなくなります。

戦国期の島津本家は2代目の島津忠治でしたが、学問に熱心な藩主でしたが、戦国大名として薩摩を統一する力はありません。

そして、流れが変わったのは伊作島津家の貴久が守護職を継いでからです。

島津貴久は、息子義久・義弘・歳久・家久と協同することで、バラバラだった島津家をまとめ上げていきます。

伊作島津家による島津の統一が進む中、日向を統治していた豊州島津忠親も共同歩調をとる姿勢を見せます。

そして、島津家は薩摩、大隅、日向の九州南端の大きな領地を支配するようになりました。

この間、独立性が強く強固な力を持っていた在郷の領主勢力も上手く体制の中に組み込んでいき、島津家の支配体制が強化されていきます。

そして、九州制覇を目指すまでに巨大な武力、戦力を持つ戦国大名として台頭したのです。

関ヶ原で負けても所領を守った島津家

関ヶ原の戦を経て徳川の世となっても、関ヶ原で見せた敵中正面突破が徳川家康を震え上がらせます。

戦後処理も巧みで、島津家は薩摩の領地を減らすことなく、そのまま外様の雄藩としての江戸幕府の最警戒対象となります。

幕末、外国船が頻繁に日本周辺に現れるようになり、老中となった阿部正弘はその対策として、薩摩藩と接近します。

薩摩藩は借金500万両といわれる財政難を、斉興の時代に立て直します。

ただ、斉興は、息子の斉彬を琉球貿易問題、財政問題への警戒などから家督を譲ることはなく、後継に弟の久光を考えるようになります。

そして、斉興、斉彬の骨肉の呪詛合戦(呪詛の文書が今でも史料として残っています)が開始し、お油羅騒動となるのです。

ただ、実際はお油羅の方も、久光もふたりの争いの中では傍観者と言う立場に近かったようです。

島津斉興から斉彬、久光までの島津家の家系

幕末期に薩摩藩の藩主となった島津斉興でしたが、藩の実権はずっと祖父の島津重豪が握っていました。

この島津重豪がトンデもない蘭癖大名で、浪費を繰り返し大藩である薩摩編の財政を大きく傾けます。

死ぬまで実権を握り続けた島津重豪から、やっと島津斉興が藩主として藩政を自由に取ることができるようになります。

彼の正妻の長男が島津斉彬です。

側室であるお油羅の方との間に生まれたのが島津久光です。

世継ぎ問題である、お油羅騒動が発生し、幕府が介入し斉興は隠居の身となります。

島津斉彬が43歳と言う年齢でやっと薩摩藩主となりますが、久光との仲は悪くありません。

お油羅の方に対しては西郷隆盛が最後まで斉彬を呪殺しようとしていたと思い込み、彼女の処罰を望んでいたといいます。

斉彬と久光とその後の島津家

幕末期、斉彬は薩摩藩の近代化を進めます。

そして、急死

その後は久光の実の息子であり斉彬の養子となった長男である又次郎(忠義)が次の藩主となり、久光は後見人となります。

そして薩摩藩は西郷隆盛、大久保利通が実権を握り、幕末の日本の中心勢力となります。

久光は特に大久保利通を重用し、やがて彼が討幕、明治維新の原動力となり、新政府の中心となります。

久光以降の薩摩家の家系図は皇室ともつながります。

昭和天皇の皇后であった香淳様は島津家の血統で彼女を通して島津家の家系図は皇室と繋がっています。

きょうのまとめ

島津久光と家系図についていかがでしたでしょうか。

簡単にまとめると

① 島津家は鎌倉時代に薩摩に定着しました

② 戦国時代までの島津家は分家同士で争っていました

③ 島津久光と兄の斉彬の仲は悪くありませんでした

と言えるのではないでしょうか。

島津久光については他にもいくつか記事があります。

よろしければご覧になって下さい。どうぞよろしくお願い致します。










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