「応仁の乱」。
それぞれにものすごくクセのある権力者や武将たちが京の都を舞台にただただ自分たちの都合でよってたかって果てしない抗争を繰り広げ続けます。
手当たり次第に紅蓮に燃やし、ならずものどもが当たり前のようにのさばり、町の人々は日々食べるものにも困窮。
かつての都の華やぎはいったいどこへ。
この迷惑この上ない政争の片方の首領が「赤入道」こと
山名宗全。
かの人が本陣を敷いた西陣はやがて京から世界に誇る綾もの織りの名産地に。
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応仁の乱始まる
もともと、室町幕府三管領の一家、畠山におけるお家騒動が尾を引いておりました。
畠山政長と義就。
たがいに家督をあいゆずらず、1467年には京の都で対陣。
将軍足利義政は諸大名に対し、両陣営には味方しないようにと命令を出しますが、野心のある山名宗全はほかの大名らと畠山義就陣営に加勢します。
こうして、洛北の神域、上御霊神社に起こった御霊合戦。
いったん政長は敗走します。
しかし元管領の幕府実力者、細川勝元がこれをかくまい、報復として諸大名に檄を飛ばします。
両陣営の多数派工作によって京に参集する大名家はふくれあがるばかり。
細川勝元は京の東に陣取り、山名宗全は西に陣取り、『応仁記』によると東軍16万対西軍11万。
さらに彼らの領国でもたがいに虎視眈々とねらいあっております。
そしてついに上京で両軍は激突。
北は船岡山から南は二条まで火の海(直線で約2km。当時もかなりの街中のはず)。
なおも細川勝元は足利義政に将軍旗を要求。
義政はこの圧力に屈し、以後、弟であり次の将軍候補である義視ともども東軍方にくみすることとなります。
つまり、ここで将軍家による中立は崩れたのです。
ですが、応仁の乱のややこしさはここからです。
足利義視が、義政に意見を聞いてもらえないからと、西軍方の陣営に走ってしまうのです。
泥沼の抗争の果てに……
その後も両陣営はたびたび大小の激突を繰り返し、
都は一円が焼けくずれ、兵力欲しさに民間からやといいれた“足軽”たちの多くが狼藉に走り、町には鬼が鳴いているようです。
すっかり意気消沈した夜闇にはどこもかしこも陣のかがり火ばかりが妖しげに揺らめいております。
将軍義政にも義視にももう手のほどこしようがありません。
そして、乱に参加した大名たちの領国でも戦乱は拡大。
京での戦にばかり専念していられなくなります。
両陣営にはいつ知れず「もう早く戦終わらないかな」というムードがただよい始めますが、
ここまでくると、それでは引っ込みのつかない人たちもいて、彼らはなんとか戦をけしかけようとします。
やがて、乱が始まって6年目に山名宗全が、その1か月後には追うように細川勝元が病で亡くなりますが、戦はいまだ収まることなく続いてゆきます。
宗全もこのころにはかつて「赤入道(赤い顔をしていた。とても情が激しく、力に物を言わせ、野心的であった。」とよばれたほどの覇気はおとろえ、
亡くなる一年前には腹を斬る自殺未遂を行っております。
西陣織をめぐる東西の抗争
山名宗全が乱の間、館を構えたあたりは今、山名町と呼ばれております。
そして、そこもふくめたかつての西軍方本陣一帯を西陣。
京の綾錦は平安のむかしからの名産。
応仁の乱のころになると“東陣”に、練貫方という座が興り、白絹の生産を始めます。
一方、“西陣”には大舎人方という座が明の新しい綾法を都に伝えます。
やがて、1513年、両座間で権力争いが起こり、西陣が勝って独占。
東陣はおとろえてゆきます。
きょうのまとめ
世の中があんな指導者たちで覆われると後が怖すぎますね。
① 応仁の乱は権力者たちのいろんな思惑によってとめどなく広がり、収まりがつかず、京都中が戦乱の渦に巻き込まれた
② 応仁の乱も進むにつれ、かつての剛腕山名宗全の覇気もおとろえた
③ 京の織物においても東陣と西陣の熾烈な抗争があった
幕末も第二次世界大戦もふくめて、混迷の時代に入る前は一定のパターンがないでしょうか。
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