山本権兵衛とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

明治~大正にかけて、海軍大臣・内閣総理大臣を経験し、日本の海軍・国会の創世記を担った

山本権兵衛やまもとごんべえ

創始者ではない立場で「海軍の父」と呼ばれるその功績は大きく、特に日清・日露戦争の勝利は山本の存在なく語れないものだといえます。

私情を一切挟まず、ただ使命の遂行に邁進するその政策は当時こそ物議を醸すもの。

そのほか、夫婦関係などに関しても時代の価値観から大きく外れており、山本はかなりの変わり者という扱いを受けています。

ここまで聞くと山本権兵衛がいったいどんな人物だったのか、いよいよ気になってきますよね。

今回はその生涯を通して、彼の人物像に迫ってみましょう。

 

山本権兵衛はどんな人?

プロフィール
山本権兵衛

山本権兵衛
出典:Wikipedia

  • 出身地:薩摩国鹿児島郡加治屋町(現・鹿児島市加治屋町)
  • 生年月日:1852年11月26日
  • 死亡年月日:1933年12月8日(享年82歳)
  • 私情を一切捨て、海外列強に対抗し得る海軍を育てた「海軍の父」。海軍大臣を経て、内閣総理大臣を二度経験した。

 

山本権兵衛 年表

年表

西暦(年齢)

1852年(1歳)薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島市加治屋町)にて、薩摩藩士・山本五百助盛珉やまもといおすけもりたかの六男として生まれる。

1862年(10歳)薩英戦争に従軍。

1868年(16歳)戊辰戦争に従軍。

1869年(17歳)西郷隆盛、勝海舟の影響で開成所・海軍操練所・海軍兵学寮など、海軍の教育機関へと進む。

1874年(22歳)海軍兵学寮を卒業。

1876年(24歳)ドイツ海軍の練習艦「ヴィネタ」へ乗り組み、グラフ・モンツ艦長から多大な影響を受ける。

1877~1886年(25~34歳)海軍少尉・海軍中尉・「天城」艦長など、海軍士官としての経験を積んでいく。

1887年(35歳)海軍次官・樺山資紀かばやますけのりの欧米視察に随行する。

1889年(37歳)海軍大佐に就任。巡洋艦「高雄」「高千穂」の艦長を歴任する。

1890年(38歳)西郷従道さいごうつぐみちの推薦で海軍大臣官房主事となる。

1894年(42歳)海軍大臣副官として日清戦争に参加。

1898年(47歳)西郷従道の推薦で第二次山県内閣の海軍大臣に就任。

1904~1905年(52~53歳)海軍大将に昇進し、日露戦争に参加。ロシア艦隊の補給を妨害、陸軍への補給を行き渡らせるための海上権の支配に務める。

1906年(54歳)海軍大臣を辞任。

1913年(61歳)内閣総理大臣に就任し、第一次山本内閣が発足される。

1914年(62歳)海外の造船企業から、海軍高官への賄賂が発覚(シーメンス事件)。内閣総辞職に追い込まれる。

1923年(71歳)加藤友三郎首相が急死し、再び内閣総理大臣に就任。第二次山本内閣が発足される。

1924年(72歳)裕仁親王ひろひとしんのう(昭和天皇)の暗殺未遂事件の責任を取り、内閣を総辞職する。

1933年(82歳)前立腺肥大症を患い、自宅にて没する。

 

山本権兵衛の生涯

1852年、山本権兵衛は薩摩国鹿児島郡加治屋町にて、薩摩藩士で右筆(秘書)や槍術師範を務めていた山本やまもと五百助盛珉いおすけもりたかの六男として生まれます。

山本はその家柄もあってか、10代から薩英戦争や戊辰戦争などに従軍し、明治維新の荒波に揉まれる少年期を過ごしました。

英雄・西郷隆盛の影響で海軍を志す

明治維新真っ只中の少年期を過ごした山本は青年になると、薩摩藩の英雄・西郷隆盛を敬愛するようになります。

というより当時、薩摩藩の人間はほとんど西郷に心酔していました。

そして西郷のように立派なリーダーになりたいと考えた山本は、自身の身の振り方を西郷に直接相談しにいきます。

ここで西郷が勧めたのが「海軍に入ること」でした。

尊敬する西郷からの勧めとあって、山本は迷いなく海軍の道を進むことを決めます。

そんな彼に西郷が紹介したのが、元幕臣でありながら新政府の中心人物となり、海軍大臣の経験もあった勝海舟でした。

当初、勝は

海軍はそんなに甘いところではない

といって、山本を門前払いにしたといいますが、来る日も来る日も訪ねてくる山本に結局は根負け。

こうして17歳の山本は基礎教育機関である開成所へ進むこととなり、その後、海軍操練所・海軍兵学寮へと学を進めていくのです。

海軍でのキャリア

1874年に海軍兵学寮を卒業した山本はその後、十数年の期間を経て大佐まで、海軍士官のキャリアを順調に重ねていきます。

その基礎となったのが、1876年、ドイツ海軍の練習艦「ヴィネタ」に乗り組みを命じられたことでした。

約10か月間、ヴィネタの船員として過ごした山本は、艦長のグラフ・モンツから多大な影響を受けます。

特に人となりにおいては、晩年まで彼を手本にすることが多かったといいます。

海軍官房主事としての改革

1891年のこと、山本は西郷隆盛の弟で、当時海軍大臣を務めていた西郷従道から海軍大臣官房主事に任命され、軍の方針を決める軍政に関わっていくことになります。

ここからの山本の行動が、彼が「海軍の父」と呼ばれるゆえんです。

前述のドイツ海軍での経験のほか、山本は1887年にも欧米視察に出向いており、今の海軍では、海外列強に太刀打ちできないことを痛感していました。

このことから、彼は海軍の組織再編成を行うため、局長、部長クラスを含む海軍士官計97名をリストラするという、大英断に出るのです。

リストラの対象には、山本と個人的に親しかった将校や、薩摩藩出身の者なども関係なく挙げられました。

彼が真に個人の能力だけを見て組織を再編しようとしたことが垣間見えます。

海軍大臣としての改革

第二次山県内閣において海軍大臣に就任してからも、私情を一切挟まない人事は健在です。

山本は1904年の日露戦争に向け、のちに英雄とも呼ばれる東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命します。

このとき東郷の就任に伴って解任となった日高壮之丞ひだかそうのじょうは山本の兵学寮時代からの20年来の親友。

山本の命で解任となった彼は、そのショックから

「俺を刺し殺してくれ」

と、山本にナイフを差し出したという逸話があります。

このほかにも海軍大臣として山本が起こした改革は数多くありますが、彼が取り仕切った人事ほどインパクトのあるものはありません。

山本は使命の遂行には手段を選ばないとてつもなく意志の固い人物でした。

彼の存在によって海軍の組織が改変されたからこそ、日清・日露戦争は日本の勝利に終わり、だからこそ「海軍の父」と、今でも呼ばれ続けているのです。

内閣総理大臣として(第一次山本内閣)

日露戦争を終えた1906年、山本は海軍大臣を辞任します。

しかしその後も国会や政党とのつながりが強く、人望が厚かったことから、内閣総理大臣の候補に挙がるように。

そして1913年には元老・大山巌おおやまいわおの推薦により、第一次山本内閣が発足。

在任中の大きな政策は、軍部大臣現役武官制を廃止ししたことでしょう。

軍部大臣現役武官制というのは、現役の中将や大将でないと大臣になれない制度で、この廃止によって陸海軍では、能力があれば階級を問わず軍政に関われるようになりました。

この政策は、軍の上層部が権威を乱用することの抑止力になったといいます。

いよいよその政治手腕を振るっていこうとしていた山本ですが…総理大臣としての彼の運命は、つくづく恵まれないものでした。

なんと発足した翌年の1914年、山本内閣は早々に総辞職へと追い込まれることになります。

海軍の士官が海外の造船会社から賄賂を受け取っていたという、「シーメンス事件」の影響です。

山本は直接事件に関与していたわけではないのですが、元海軍という立場もあって辞職。

海軍大臣を務めていた斎藤実と共に、予備役といわれる補欠人員への降格を余儀なくされます。

内閣総理大臣として(第二次山本内閣)

ただ第一次山本内閣の失脚に関して、山本に落ち度がないことは明らかで、天皇直属で総理大臣の人選権をもつ枢密院には、山本を変わらず支持する人が少なくありませんでした。

このこともあって、そこから9年後の1923年、加藤友三郎首相の急死に伴い、山本は再び内閣総理大臣に返り咲きます。

まさに人徳の成せる技といえますね。

しかしこのときも時勢は彼に味方をせず…、1923年12月27日、皇太子裕仁親王ひろひとしんのう(昭和天皇)が狙撃される「虎ノ門事件」が発生します。

この事件は関東大震災の混乱によって引き起こされたもので、震災後復興を担っていた山本内閣は政治的責任を取るため、1924年に総辞職することになるのです。

こうして不運ともいえる形で二度の失脚を経験し、キャリアを終えることになった山本。

その後は晩年まで政治に関わることはなく、以降は夫婦仲睦まじく、穏やかな生活を送ったといいます。

 

山本権兵衛にまつわるエピソード

ここでは、山本権兵衛と妻、登紀子に関するエピソードをご紹介します。

前述のとおり山本は、ドイツ海軍の練習艦「ヴィネタ」艦長のグラフ・モンツから多大な影響を受けています。

登喜子との結婚

1878年に山本は妻の登喜子ときこと結婚してします。

その夫婦関係にもモンツ艦長の影響は大きく出ていました。

当時の日本において、妻は夫に従うのが当たり前でしたが、山本は公の場でも妻に敬意を払う姿勢を見せ、しばしば嘲笑されることもあったといいます。

欧米特有のレディファーストの文化を、いち早く取り入れていたわけですね。

自身が教官を務めていた練習艦のなかに登喜子を案内した際も、船から桟橋に移る際、先回りして履き物を用意する姿に練習生が失笑したなんてエピソードも…。

当時の人からすれば奇妙なのかもしれませんが、海外の価値観を学んで、風潮に流されず自分の正しいと思うほうを選べる山本は素直にカッコイイですね。

自身の正義に忠実で上官と衝突することも多く、中尉の時代には非職になることもありました。

出会いも異質だった?

風潮に囚われない山本の姿勢は、登喜子との結婚そのものにも表れています。

登喜子はもともと貧しい漁師の家系で、生活苦を理由に遊郭に売られてきた娘でした。

海軍のエリートである山本にはほかにも縁談があり、わざわざ登喜子を選ぶ理由など、普通ならありません。

しかし登喜子の身の上を知った山本は

「なんとしても、自分がこの生活から救い出してやるんだ」

と決意を固めたといいます。

彼女を救い出す方法もまたぶっ飛んでいて、山本はあろうことか、登喜子を連れて遊郭を脱走してしまうのです。

深夜にボートを横付けし、遊郭の二階から綱を垂らして抜け出すという、スパイ映画さながらの展開。

山本は当時からそれなりの高給取りでしたから、最初からお金で解決することもできたはずです(実際、遊郭とは後日示談となり、お金を支払っています)。

わざわざこんな救い出し方をするあたり、かなりのロマンチストだったのかも…?

 

きょうのまとめ

首相としては時勢に恵まれず、非常に短い任期で辞任してしまった山本権兵衛。

しかし「海軍の父」と呼ばれるその功績はたしかなもので、その陰には、私情を押し殺して軍の繁栄を推し進める、使命に忠実な姿がありました。

その意志の固さをもって、もう少し長く総理大臣を務めていたら、日本を大きく動かすような政策がまだまだ見られたかもしれませんね。

最後に今回のまとめです。

① 山本権兵衛はドイツ海軍のグラフ・モンツ艦長の影響を受け、当時の日本の価値観からは外れた愛妻家だった。

② 親友や同じ薩摩藩の者も問わないリストラなど、大規模な組織再編で海軍を立て直し、日清・日露戦争を勝利に導いた。

③ 総理大臣として二度の失脚を経験。時勢に恵まれず、非常に短い任期に終わった。

その愛妻家ぶりを見ても、山本が情に厚い人物であることは明らかです。

人事に大きく影響を与えたキャリアは彼自身、本当は辛いことの連続だったのではないでしょうか。

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