上杉謙信とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

戦国時代最強の武将との呼び声も高い

上杉うえすぎ謙信けんしん

皆様はどのようなイメージをお持ちですか?

合戦に明け暮れた彼の人生はどのようなものだったのでしょうか。

年表やエピソードを交えて詳しく解説していきます。

どうぞ最後までお読みください。

 

上杉謙信はどんな人?

プロフィール
上杉謙信

上杉謙信像
出典:Wikipedia

  • 出身地:新潟県上越市(春日山城)
  • 生年月日:1530年(享禄3年)1月18日
  • 死亡年月日:1578年(天正6年)3月13日 (享年49歳)
  • 生涯を戦いに捧げた戦国最強の軍神。
 

上杉謙信 年表

年表

西暦(年齢)

1530年(1歳)春日山城に生まれる。(幼名、虎千代)

1536年(7歳)父、為景が12月に病死。謙信は甲冑を身に纏い葬儀に参列する。

1543年(14歳)元服して景虎と名乗る。

1544年(15歳)まだ若い謙信を侮って近隣の武将が攻撃を仕掛けてくるが、見事これを撃退。華々しい初陣を飾る。

1548年(19歳)兄、晴景から家督を相続し長尾家を相続する。

1553年(24歳)兄、晴景が病死。武田信玄軍と初めての対決。

1556年(27歳)越後を統一。

1561年(32歳)関東管領に就任する。川中島の戦いで武田信玄と壮絶な戦いを繰り広げる。

1570年(41歳)このころから謙信と名乗る。

1573年(44歳)越中を平定。武田信玄が病死する。

1577年(48歳)能登を平定。手取川の戦いで織田信長軍に大勝する。

1578年(49歳)関東に上洛する直前に脳溢血で急死する。

 

自らを毘沙門天の化身と称し戦い続けた軍神

上杉謙信の生涯についてみていきましょう。

上杉謙信の誕生

上杉謙信は長尾ながお為景ためかげの末子として、1530年に為景の居城である春日山城で生まれました。

小さい頃から城の模型で、「城攻めの遊び」をするのが好きだったそうです。

7歳から春日山城下にある林泉寺で、名僧天室光育てんしつこういくから厳しい修行を受けます。

後に軍神と呼ばれる謙信の素質はここで培われました。

わずか15歳で初陣を飾った謙信は、部下の助けを得て力をつけていき、19歳で家督を継ぎ当主となりました。

関連記事 >>>> 「上杉謙信の城、春日山城について」

合戦の日々

謙信が24歳のとき先代の兄、晴景が病死します。

謙信は名実共に国主となったのです。

また、この時期に生涯のライバルである武田信玄の軍勢と川中島で初の合戦を繰り広げます。

2年後の26歳の時、再び川中島で信玄と戦います。

この時は今川義元の仲介で信玄と一時的に和睦しました。

更に2年後の28歳のとき、信玄に葛山かつらやま城を攻められ、ここから3度目の川中島の戦いが起こります。

謙信は幾度となく関東への出兵を繰り返し、1561年、相模国の小田原城を包囲します。

しかし、遠征を行っていた隙をついて信玄が軍勢を率いて攻めてきたとの知らせが入ります。

謙信はこの状況は不利と悟り、一旦鎌倉へと退却します。

この鎌倉の滞在中、鶴岡八幡宮で上杉憲政から室町幕府の重職である関東管領を引き継ぎます。

関東の政治を総括する立場に就任したことは、謙信にとって武門の栄誉でした。

そして越後に帰った謙信は、すぐにライバルである信玄との戦の準備に取り掛かります。

謙信の1万8千の軍勢と信玄の2万の軍勢は、川中島で4度目となる合戦を繰り広げます。

双方で7千〜8千人の戦死者を出したこの戦いは、戦国時代の中でも最大級の戦いとして後世に語り継がれています。

関連記事 >>>> 「上杉謙信と武田信玄の川中島の戦いの解説とエピソード」

この後も関東へ度々出兵を繰り返して戦いつつ、越中、能登、加賀を平定していきます。

1577年には当時力を付けていた織田信長の軍勢に手取川で大勝しています。

このとき謙信は

謙信
信長は案外弱く、これなら天下を統一することは簡単だ。

と言ってのけたといいます。

1577年12月には関東出兵の為の動員名簿を作成し、翌年の3月15日を関東への出陣日と定めました。

しかし、直前の1578年3月9日に脳溢血で倒れ、

そのまま意識が戻ることなく、3月13日に帰らぬ人となりました。

関東管領の名の下、関東を平定することに心血を注いでいた謙信は志半ばで倒れてしまったのです。

亡くなる1ヶ月に謙信は自らの肖像画と辞世の句を残しています。

自らの死が近いことを悟っていたのでしょうか。

関連記事 >>>> 「上杉謙信の死因とは??」

 

上杉謙信にまつわるエピソードや伝説

大の酒豪

謙信はが大の好物でした。

つまみもほとんどとらず、ただひたすらに酒だけをたしなむという飲み方をしていたようで

「馬上杯」という直径12cmもある大きな杯が遺品として残っています。

謙信が49歳という若さで亡くなってしまったのも、酒の飲み過ぎが原因であるとの説が有力です。

死の1か月前に残した辞世の句には

謙信
四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒

「四十九年の我が生涯は一睡の夢にすぎない。この世の栄華は一盃の酒に等しい。」

と詠んでおり、謙信がどれだけ酒を愛していたか窺い知ることができます。

 

関連記事 >>>> 「上杉謙信の後世に残る有名な名言の数々」

 

「毘」の軍旗を掲げる

謙信の軍旗には「毘」の文字がありました。

この軍旗は謙信が信仰していた「毘沙門天」の一文字をとったものです。

謙信の母、虎御前とらごぜんが信心深かったことや

幼い謙信を教育した天室光育の影響によるものです。

国主の座に就いてから、謙信は春日山城下に毘沙門堂を建立して毘沙門天を祀りました。

そして日夜ここに参拝して、国内の安全と合戦の勝利を祈願していたと伝えられています。

敵に塩を送る

戦国時代の中でも有名なエピソードの1つです。

武田信玄が駿河国(静岡県)に侵攻した時の話です。

駿河の国主、今川氏真(義元の息子)はその報復として信玄の領地に塩を送ることを禁止しました。

信玄の領地は内地なので海がなく、塩を生産することができません。

このことを知った謙信は氏真の行いを「卑怯である」と非難した上で、信玄の領地に塩を送ったと伝えられています。

この際に

謙信
信玄と争うべきは弓(戦争)にあって、米塩ではない。

という名言を残しています。

後世の創作であるとの意見もありますが、この謙信の義侠心に感謝した信玄が

お礼として謙信に送ったと伝えられている太刀が現在も東京国立博物館に所蔵されています。

この逸話から争っている相手とは関係のない分野では援助をすることを「敵に塩を送る」というようになりました。

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。上杉謙信についていかがでしたでしょうか。

上杉謙信とは?簡単にまとめると

① 自ら毘沙門天の化身と称し、生涯を戦いに捧げた軍神

② 武田信玄との川中島での激闘

③ 大の酒好き

④ 敵に塩を送る義将

と言えるのではないでしょうか。

その他の記事についても上杉謙信にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

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