上杉謙信の城、春日山城について

 

戦国最強の武将、上杉謙信

彼が49年の人生の中で過ごした居城、春日山城。

自然の要塞を最大限に利用したこの名城は難攻不落の堅城との呼び声高く

記録に残っているその巨大な外観は「 日本5大山城 」の1つと呼ばれており、

2006年には日本城郭協会が選定した「 日本の名城100選 」にも選ばれています。

今回はこの春日山城の歴史や施設について、まとめてみました。

どうぞ最後までご覧ください。

 

長尾・上杉氏4代の居城となった名城

春日山城は南北朝時代から既に築城されていたと考えられています。

長尾為景(謙信の父)が
越後国の守護、上杉房能に対してクーデターを起こし、
房能を打ち破り、春日山城の城主となります。

長尾為景は当時は規模の小さい城であったこの城に大規模な改修を施し
難攻不落の要塞を作り上げました。

その後、長尾晴景、謙信、上杉景勝と受け継がれ
為景から4代にわたって国主の居城として機能し続けました。

慶長3年(1598年)、景勝が会津(福島県)に国替えとなると、新しく国主となった堀秀治は
山城である春日山城は政治の中枢にすることが難しいという理由から
新たに福島城(新潟県上越市)の築城を開始します。

慶長12年(1607年)、福島城が完成し、
新たに作られた城下町に多くの民衆が移住して、
春日山城は城としての役目を終えることになりました。

 

春日山城周辺の地域・名所

春日山

標高189メートルあるこの山の頂上に春日山城が築かれました。

この山の頂上に残っている本丸跡からは日本海と広大な平野、
それらを囲む山を一望することができ、
その景色はまさに絶景です。

春日山神社

春日山城址の中腹に鎮座するこの神社は上杉謙信を主祭神として祀っています。

明治23年(1890年)に旧高田藩士小川澄晴が
春日山城に上杉謙信を祀る神社を創建するために
同志たちと活動を展開します。

越後出身の官僚、前島密の援助を得て
明治34年(1901年)に遷座しました。

境内には上杉謙信の銅像が建てられており、
神社を創建した小川澄晴の実子で
「 日本児童文学の父 」と呼ばれる小川未明の詩碑や
小川未明の両親の霊碑等も建てられています。

林泉寺

曹洞宗の寺院である林泉寺は
幼少期の上杉謙信がこの寺の
第6代住職、天室光育(てんしつこういく)から
7歳から14歳までの間、
厳しい禅の修行と文武の道を学んだ場であり、
謙信の名将たる素質はここで培われました。

林泉寺は上杉謙信の死後も、
上杉景勝によって引き続き保護されており、
景勝が会津へ転封となった際、この寺も会津へ移されました。

次いで景勝が米沢へ転封となった際も米沢城下に移されており、
米沢の林泉寺には上杉氏に縁の深い宝物が今も多く所蔵されています。

御館跡

上杉憲政が相模国(神奈川県)の北条氏康に敗れて
天文21年(1552年)に謙信を頼ってくると、
謙信は憲政のためにこの館を築造しました。

弘治年間(1555年〜1558年の間)に竣工したと考えられています。

以後、この館は憲政の居館と同時に謙信の政庁として公的に使用されました。

天正6年(1578年)、謙信が49歳の若さで急死。

養子の景勝と景虎が家督相続をめぐって
争いを起こしました。

御館の乱と呼ばれるこのお家騒動で御館は主戦場となり、
景虎はこの御館に立てこもって景勝に抵抗しました。

天正7年(1579年)3月17日、景勝の総攻撃を受けた御館は放火されて落城し、
景虎は御館を脱出して逃亡中に味方に裏切られて自害しました。

その後は国替えで新たに越後国の国主となった堀氏が利用していたと言われていますが
放火の影響で使い物にならなくなっていたせいか慶長5年(1599年)には既に耕地になっていたと
伝わっています。

 

きょうのまとめ

いかがでしたでしょうか。

上杉謙信の居城、春日山城。

戦国期難攻不落の山城と呼ばれたこの城は

長尾為景以降4代続く上杉家の歴史そのものと言えるでしょう。

また、春日山城周辺にある様々な施設も今では観光の名所となっています。

上杉謙信に興味のある方は是非1度行ってみることをおすすめします。

上杉謙信については他にも様々な記事を書いています。

興味がある方はどうぞご覧になってください。

 

[関連記事]

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

nine + 4 =