「越後の龍」と呼ばれ、自らが信仰する毘沙門天の如く戦場を駆け抜けた
上杉謙信。
天正5年(1577年)、彼は織田信長の軍勢を手取川の戦いで打ち破り、
越中国(富山県)、能登国、加賀国(ともに石川県)を支配し、その勢いのまま関東に上洛する手はずを整えていました。
その直前に急死してしまいます。49歳の若さでした。
当時、人生五十年と言われ、平均寿命は短かったにしても60や70歳を超えてなお生きていた武将は沢山いました。
では、謙信は何故、まさにこれからというタイミングで命を落としてしまったのでしょうか?
現在挙げられている様々な説についてまとめてみました。
どうぞ最後までご覧ください。
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謙信の死因についての説
食生活や酒好きが災いしたという説
今現在で一番有力視されている説です。
謙信は「大の酒好き」であり、それにまつわる逸話も多く残っています。
・戦場に持ち込んでいた盃の大きさはかなりのものだった
など
酒に関する逸話は実に多く、謙信が酒好きだったということはほぼ事実と捉えて間違いありません。
他にも酒のつまみとして梅干しや味噌をよく食べていたという記録や、干物も好物だったと伝わっていて
毎日のように酒やつまみを摂っていたと言われています。
そのような生活を送っていた為に血圧が上がって、脳出血を起こして倒れてしまったのではないか?
と考えられています。
謙信は「3月9日に居城である越後(新潟県)の春日山城の厠(トイレ)で倒れた」と伝わっています。
越後の3月といえば相当な寒さと考えられます。
厠の中はさらに気温が低くて寒い場所だったのでしょう。
謙信は普段の生活で高血圧だったことに加えて、寒い場所にいたことで血管が収縮して
厠で力んだことで脳の血管が耐えられなくなってしまい、脳出血で亡くなってしまったのではないか?と言われています。
刺客に襲われたという説
謙信が厠で倒れたのは「刺客に襲われた」からであるという説もあります。
1つは「織田信長の刺客に襲われた」という説。
信長は謙信が亡くなる前年に手取川の戦いで謙信に大敗を喫しており
謙信を恨んでいたか、脅威に感じていたことは否定できません。
信長が放った刺客が厠で謙信を待ち伏せし、謙信を槍で刺し殺したという俗説があります。
もう1つは「一族が放った刺客に襲われた」という説です。
謙信が亡くなる前後に一族の上田長尾衆は不穏な動きを見せています。
謙信が亡くなる直前、上田衆の筆頭だった直江兼続は謙信の死を予知していたかのような
言葉を発したと言われており、謙信の葬式を取り仕切ったのもこの上田衆と言われています。
それだけでなく、「謙信が厠で倒れて昏睡の後に亡くなった」という記録は全て上田衆によって語り継がれているものです。
永禄7年(1564年)、上田長尾衆の長であった長尾政景は謎の溺死を遂げました。
この真相ははっきりしておらず、
武田家と内通する手はずを進めていた政景を謙信が謀殺したのではないかと言われています。
そして謙信は上田衆を自らの手中に収め、戦の際は必ず上田衆を前線に配置したと言われています。
このことから、日頃から謙信を恨んでいた上田衆が刺客を謙信の下に送り、
謙信を暗殺したのではないか?という一説もあります。
婦人病で亡くなったという説
謙信は実は女性であり、病を患っていた謙信が腹痛を起こして
それが元で亡くなってしまったという説です。
歴史書である「当代記」によると謙信は「大虫」で倒れたと書かれており
この「大虫」が当時で言う婦人病(更年期障害)のことを指す為
謙信が厠で倒れたのはそれが原因である。という俗説も死因の1つとして挙げられています。
きょうのまとめ
いかがでしたでしょうか。
謙信が急死してしまった原因には様々な説がありますが
いずれにせよ謙信が亡くなってしまったことで
当時の勢力情勢が大きく変わってしまったことは事実です。
もし謙信が倒れることなく関東への上洛を実現させていたら?
謙信がその後も織田信長の脅威として存在し続けていたら?
歴史は変わっていたでしょう。謙信が天下統一を成し遂げていたかもしれませんね。
上杉謙信については他にも様々な記事を書いています。
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