上杉謙信と武田信玄。
共に戦国最強の呼び声が高いこの二人ですが、皆様はこの二人が幾度となく戦いを繰り広げていた歴史をご存知ですか?
川中島の戦いで両雄は5回にわたって激突しています。
様々な軍記物や小説、ゲームなどの題材になっている川中島の戦い。
エピソードなどを交えて詳しく解説していきます。
どうぞ最後までご覧ください。
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川中島の戦いとは?
10年間で5回に渡って戦われた「川中島の戦い」はどのようなものだったのでしょうか。
早速みていきましょう。
村上義清の救援に(第一次)
天文22年(1553年)4月9日。
村上義清の葛尾城が信玄に落とされてしまいます。
8月、謙信のいる越後に逃亡した村上義清は、謙信に助けを求めます。
そして謙信は8千の兵を率いて信濃にある川中島に出陣します。
布施(長野市)、八幡(更埴市)で信玄軍を撃破して、いくつかの城を落とした謙信は10月までに帰国しました。
京へ上洛して天皇に拝謁するため、信玄軍の深追いはしなかったのです。
これが「第一次川中島の戦い」と呼ばれ、この後10年に渡る戦いのきっかけとなります。
北条高広の反乱(第二次)
天皇に謁見した謙信は、時の将軍足利義輝にも謁見し、大坂や紀伊、京の寺を参拝した後に帰国します。
翌年の天文23年(1554年)。
突然家臣の北条高広が信玄の調略により、謙信に反乱を起こします。
翌年の弘治元年(1555年)2月、謙信は自ら出陣し北条高広の城を攻撃します。
包囲された北条高広はたまらず謙信に屈服し、謙信の軍勢に帰参します。
7月、謙信は川中島に出陣します。
しかし決定的な一戦とはならず、5ヶ月以上の膠着状態が続いたところで駿河国(現在の静岡県)の今川義元が両者の仲介に入ります。
謙信は信玄と和睦し、春日山城に帰りました。
これが「第二次川中島の戦い」です。
大熊朝秀の寝返り(第三次)
弘治2年(1556年)3月、
度重なる抗争に嫌気がさした謙信は、出家をする意向を家臣に表明します。
高野山へ謙信が向かっている間、またもや信玄の調略によって謙信の重臣の1人、大熊朝秀が信玄側に寝返ります。
謙信は出家することを断念して春日山城に戻り、駒帰(糸魚川市)で大熊朝秀を撃破します。
謙信が出家騒動を起こしている間、信玄は着々と謙信との戦の準備を進めていました。
信玄討伐の覚悟を決めて出陣した謙信は、第二次川中島の戦いで処分した旭山城を修復して兵を入れます。
弘治3年(1557年)8月、
互いの軍勢は上野原(長野市)で衝突しますが双方とも戦果は得られず、秋までには互いの軍勢はそれぞれの領地に帰国しました。
これが「第三次川中島の戦い」です。
信玄と激戦を展開(第四次)
<関東平野を蹂躙し、関東管領に就任>
永禄3年(1560年)、
謙信は
「関東管領上杉憲政の関東帰城のお供をする。」
という名目で関東に侵攻します。
謙信の軍勢は10万以上に膨れ上がり、
翌年永禄4年(1561年)、
相模国(神奈川県)の北条氏康の本拠地である小田原城を包囲します。
しかし難攻不落の堅城といわれた小田原城をなかなか攻略できず、そうこうしているうちに信玄が自領に向かって出陣したとの報告が入ります。
滞在は不利と判断した謙信は軍を率いて鎌倉へと引き揚げます。
3月16日、謙信は上杉憲政の頼みで関東の政治を司る関東管領に正式に就任します。
6月に春日山城に帰った謙信はすぐに信玄との戦いの準備に取り掛かります。
<大群を率いて妻女山に陣を構える>
8月、謙信は1万8千もの軍勢を率いて春日山城を出発します。
謙信は輸送部隊と5千の兵を川中島北側に位置する善光寺に残し、自らは1万3千の兵を率いて南側にある妻女山に陣を構えます。
対して信玄も2万の兵を率いて西側に位置する茶臼山に陣取った後、妻女山の謙信の軍勢が目の前にある海津城に入りました。
<山本勘助の啄木鳥戦法を看破>
長期の滞在は不利と判断した信玄の家臣たちは謙信と決戦することを主張します。
謙信の強さをよく知っている信玄は慎重でしたが、信玄の軍師である山本勘助がある作戦を考案します。
まず兵を二手に分け、別働隊を率いて妻女山に陣を張る謙信軍を攻撃し、
そして別働隊で謙信軍をおびき寄せ、待ち伏せていた本隊と別働隊で謙信軍を挟み撃ちにして殲滅する。
「啄木鳥戦法」と名付けられたこの作戦を信玄は採用し、作戦を決行します。
9月9日、信玄の別働隊1万2千が謙信の軍勢が陣取っている妻女山に向かいます。
しかし、この信玄の別働隊は妻女山に到着して愕然とします。
なんと、謙信の軍勢は妻女山にはすでにいなかったのです。
9月9日、夜が明け霧が晴れると待ち伏せをしていた信玄の本隊8千は愕然とします。
目の前に謙信の軍勢がいるのです。
実は謙信は信玄方の海津城から見える炊煙がいつもより多いことに気づき、啄木鳥戦法を見破っていたのでした。
<信玄に突撃を敢行>
謙信はこの戦いに上杉家の全てを賭けて信玄の軍勢に突撃します。
謙信に押されて劣勢となった信玄軍は、啄木鳥戦法を考案した山本勘助や信玄の弟である武田信繁が討死するという多大な被害を出し、信玄自身もあと一歩のところまで追い詰められます。
しかし、信玄の別働隊が妻女山から到着したことで戦況は一転します。
挟み撃ちされる状況となった謙信軍は戦況が不利となり、
これ以上の続行は無理と判断した謙信は全軍に善光寺へ退却するよう命令しました。
<血染めの感状>
善光寺に退却した謙信は他の軍勢と合流した後、自国に引き揚げます。
この戦いでの死傷者は謙信軍が3千4百人、信玄軍が4千6百人と伝えられており、いかに激戦であったかがわかります。
戦いが終わった9月13日、謙信は活躍した7人の部下に「血染めの感状」を与えました。
一族が亡くなりながらも忠誠を尽くし、血に染まりながら手柄を立てた武将たちに対しての感状です。
これが「第四次川中島の戦い」です。
2ヶ月に渡る睨み合い(第五次)
永禄7年(1564年)、謙信は北条氏康と戦うため関東に出兵していました。
しかし、またも信玄が背後から謙信の領内に侵攻して村を焼き払い城を落とします。
たまりかねた謙信は神社で「武田信玄を退治する」という願文を奉納し、勝利を祈願します。
7月下旬に兵を率いて春日山城を出発した謙信は、8月には川中島へと出陣します。
それに対抗して信玄も塩崎城(長野市)まで出陣し、両軍は2ヶ月に渡り睨み合いますが、そのまま衝突することはなく10月には双方とも撤退して終わりました。
これ以降、川中島で謙信と信玄による戦いが行われることはありませんでした。
これが「第五次川中島の戦い」です。
川中島の戦いでのエピソード
謙信と信玄の一騎打ち
謙信と信玄との軍勢が衝突している時、信玄の本陣に突入する一人の騎馬武者がいました。
この騎馬武者は腰を掛けて軍勢の指揮をとっていた信玄に、馬上から三尺の太刀を振りかざして信玄に切り掛かりました。
信玄は刀を抜く暇もなく、軍配で防いだと伝えられています。
あわやと思われましたが、信玄の部下が助太刀に入り、荒武者はその場を離れて行きました。
この荒武者は謙信であったと伝わっており、総大将同士による一騎打ちが展開されたということになります。
花も実もある勇士
こちらも上記のエピソードと時同じくしての逸話です。
謙信軍の武将「小島貞興」と信玄軍の「山県昌景」は一騎打ちを行っていました。
どちらも猛将との呼び声が高く、互角の戦いを繰り広げていました。
しかし戦いの最中、信玄の嫡男の義信が危機に陥っているところを昌景は目撃します。
昌景は貞興に
主君のご子息が危機に陥っている為、この勝負を預けたい。
と願い出ます。
貞興はその願いを聞いて了承します。
昌景はその心意気に
花も実もある勇士よ。
と貞興を称賛したと伝えられています。
きょうのまとめ
戦国最強と言われる上杉謙信と武田信玄。
その2人が争った川中島の戦いいかがでしたでしょうか。
川中島の戦いをまとめてみると
① 発端は信玄に領土を奪われた隣国の武将たちが、謙信に救援を依頼したこと
② 5回にわたった約10年間戦いを総称して「川中島の戦い」とよぶ
③ 川中島で戦いが行われたのは第2次と第4次の戦い
④ 第4次の戦いでは両軍の主力が激突し、7千〜8千人の死傷者
⑤ 謙信と信玄の一騎打ちをしたというエピソードもある
と言えるのではないでしょうか。
まさに死闘と呼ぶにふさわしい戦いだと思います。
総大将である2人の一騎打ちもワクワクする逸話ですね。
その他の記事についても上杉謙信にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞ御覧ください。
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