古代エジプト第18王朝のファラオ、ツタンカーメン。
近親交配によって生まれながらに虚弱体質だったことや、わずか9歳で王として一国を任されたこと、19歳の若さでその生涯を終えたこと。
激動と呼べるその人生や、行った政策の大きさから考古学者の間では謎の人物として、特に注目を受けている王です。
1900年代に入ってからは、ツタンカーメンの呪いが話題になり、さらにその名前が広く世界へ広まりました。
このように誰しもその名前を知っているツタンカーメン。
実際のところ、どんな人だったのでしょうか。
その生涯から、彼の人物像に迫っていきます!
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ツタンカーメンはどんな人?
- 出身地:古代エジプト
- 生年月日:紀元前1342年頃
- 死亡年月日:紀元前1324年頃(享年19歳)
- 古代エジプト第18王朝のファラオ。虚弱体質ながら宗教改革や首都の移動など、王の務めを果たし、戦場でも積極的に戦った。
ツタンカーメン 年表
西暦(年齢)
前1342年(1歳)アメンホテプ4世と、側室・キヤの息子として古代エジプトに誕生。
前1333年(9歳)父・アメンホテプ4世より王位を継承。
前1333年~前1324年(9~19歳)アテン神信仰だったエジプトをアメン神信仰にする、首都をアマルナからメンフィス、テーベへ戻すなど、父が変えてしまった政策を元あった姿へ戻していく。
1324年(19歳)骨折して動けない状態に拍車をかけるように、マラリアに感染して死亡。
ツタンカーメンの生涯
大人たちに操られていた?
ツタンカーメンが父・アメンホテプ4世から王位を継承したのは9歳の頃。
その年齢から考えるに
「彼は周りの大人たちの言いなりで、政治を行っていたのでは?」
とする声がしばしば見られます。
ツタンカーメンはファラオとなって以来、父が起こしたアテン神の信仰を、従来のアメン神の信仰へ戻します。
さらには首都をアマルナからメンフィス、テーベへと移動。
元はといえばアマルナが首都になったのも、アメンホテプ4世がアテン神の信仰を掲げた際に行われた改革の一つでした。
このようにアメンホテプ4世の行った政策をことごとく否定するように、ツタンカーメンの政治は行われていったのです。
これは父の政策が国民から不評だったことから、王位継承後、ツタンカーメンがそれを正していったという風にも取れます。
しかし年端もいかない10代の少年が起こしたにしては、改革の規模があまりにも大きいです。
アメンホテプ4世が掲げたアテン神の信仰は、それまで権力を持っていた神官たちの立場を奪うものでした。
そこからまた、神官たちが権威を振るっていたアメン神信仰に戻されたことから
「ツタンカーメンは神官たちが権力を取り戻すため、利用されたのではないか?」
といわれているのです。
ただその真意は定かではなく、ツタンカーメンは本当の神童だったのかもしれません。
彼は生まれながらの虚弱体質にして、ヌビアの反乱を治める、古代エジプトと対を成す勢力だったヒッタイト帝国との戦いに勝利するといった逸話も残しています。
杖を使わなければ歩くことすらままならないのに、実際に戦場にも出向きました。
彼が名ばかりの王ではなかったということもまた、事実なのです。
だからこそ、余計に謎は深まるばかりなのですが…。
ツタンカーメンの死因も権力を巡る争いからとする説も…
ツタンカーメンは転倒による骨折で動けなくなり、そこにマラリアの感染が重なってその生涯を終えることになりました。
結局彼は骨折そのもので命を落としたわけではないのですが、この骨折に関しては権力を欲した者が暗殺を企てていたとする説があります。
ツタンカーメンの遺骨にあった、大腿骨を縦に割る激しい損傷は、とても自分で転倒しただけのものとは考えられなかったのです。
要するに彼はなんらかの事故に巻き込まれ、骨折した可能性が高いとされています。
しかしその事故自体も自分で起こしたものなのか、他者に狙われてのものなのかはわかっていません。
自ら積極的に戦場へ出向く王だったので、単に戦争で大怪我をしただけだとすれば、片付いてしまいそうな話でもあります。
しかし気になるのは、ツタンカーメンの死後の王位の行方です。
それまでファラオの座が、王家の人間以外に受け継がれることは絶対にありませんでした。
しかしツタンカーメン以降は、大臣や将軍を務めていた者など、王家以外の血筋の人物に受け継がれていくことになるのです。
これはツタンカーメンの代でその血が途絶えてしまったことから、やむを得なかったともいえます。
ただ彼が権力を欲した何者かに命を狙われていたとしたら…それもまた、合点のいく話です。
ツタンカーメンは家族愛に満ちた王だった
妻・アンケセナーメンへの愛情
古代エジプトのファラオは、正妻以外にも側室がおり、複数の妻を持っていることが当たり前でした。
しかしツタンカーメンが愛したのは、生涯に渡って、正妻のアンケセナーメンただ一人です。
欲求に任せて生きていれば、「王が複数の妻を持つことは当たり前」とされていた世の中において、ただ一人を愛し続けるなどということはあり得ません。
またツタンカーメンの副葬品の中には、二人の仲睦まじい様子が描かれたものも見つかっています。
その中に描かれる一足のサンダルを二人で分け合う姿には、アンケセナーメンをただ子孫繁栄のための結婚相手ではなく、一人の女性として誠実に愛したいというツタンカーメンの想いが垣間見えます。
改名後も父から授かった名前を大切にしていた
副葬品には、彼が改名する前の名前、すなわち父のアメンホテプ4世に名付けられた「トゥトアンクアテン」という名前も刻まれていました。
アメン神の信仰を促した周囲の圧力から、アテン神を敬ったその名前を名乗ることは許されません。
ただ副葬品にその名前が残っていたことには
「改名してしまったものの、以前の名前は父から授かったのだから大切にしたい」
という意志を感じさせられます。
ツタンカーメンはきっと、人に対する誠実さ、愛情を深く持った王だったのでしょう。
その愛情深さは、自身の生涯がそれほど長くないことを悟ってのものかもしれません。
あるいは虚弱体質に悩まされる過程で、人に対する思いやりを深めていったとも考えられます。
痛みを知っている分、優しくなれる…といったところでしょうか。
きょうのまとめ
ツタンカーメンはその短い生涯の間に、古代エジプトに大規模な改革を起こしました。
しかしその功績には、権力を欲した大人たちの陰謀が絡んでいるなど、様々な推測が飛び交います。
何千年も昔の話だということと、その生涯が明らかに短いことが相まって、優れた考古学者でも、正しく判断するのは難しいはずです。
しかしどう取っても、やはり9歳の少年の存在が国を大きく動かしたという事実に変わりはありません。
今回の内容を簡単にまとめると…
① ツタンカーメンの政策は、周りの大人たちに操られていた可能性が高い
② 積極的に戦場へ出向き勝利を収めるなど、王としての資質も確かに持っていた
③ 生涯に渡りアンケセナーメンただ一人を愛し、改名した後も父への敬意を忘れなかった
といったところでしょうか。
年端もいかない少年だったツタンカーメンは、大人たちの権力争いに翻弄されつつも、王としての務めを立派に果たしてみせたのです。
その状況に対する立ち居振る舞いにも、彼の誠実な人柄が現れているといえるでしょう。
やはり現代にも語り継がれるべき偉大な王だったのだと、再認識させられます。
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