江戸幕府5代将軍・徳川綱吉 身長の謎と悪評の理由

 

「生類憐れみの令」を発布したことで知られる江戸幕府5代将軍

徳川綱吉

色々ある噂や彼の悪評の根拠についてご紹介しましょう。

 

徳川綱吉は低身長症だったという説

こんな話しが浮上したのには理由がありそうです。

綱吉の身長は124cm?

その根拠は、愛知県岡崎市にある大樹寺(だいじゅじ)という浄土宗のお寺にあります。

ここは徳川氏(松平氏)の菩提寺で、歴代当主や将軍の位牌が安置されています。

そして何故かそれらの位牌の高さ(長さ)は、故人の身長と同じ高さにされているそうです。

例えば、家康の位牌は159cm、秀忠が160cm、家光が157cmと人の身長ほどの背の高い位牌。

ところが、綱吉の位牌の高さは124cm

歴代将軍の位牌がそれらしい高さになっているのに比べ、綱吉の位牌は明らかに低すぎます! 

徳川家ではいくつかの遺骨の学術調査が行われており、それらの遺骨と位牌との差は5cmの誤差もないとのこと。

ならば、この位牌のサイズはまさに綱吉の身長・・・? 

これを信じるとなると、当時の成人男性の平均身長155cmよりかなり低い綱吉は、低身長症と言えそうです。

綱吉の低身長説はアンチの仕業?

しかし、これは綱吉を嫌った6代将軍家宣(いえのぶ)とその子・7代将軍家継(いえつぐ)時代の悪質な作為だ、とする説も。

綱吉に会ったオランダ人たちが残した記録では

立派な風貌に強い印象を受けた

となっていて、低身長に言及していることは一切ありません。

彼らは綱吉にお世辞を言う義理もないですから、率直な感想を述べた彼らの意見のほうが正解だ、という説もあるのです。

綱吉マザコン説

綱吉の母はもともと江戸城の大奥で働く「 お玉 」と呼ばれる一人の侍女で、3代将軍家光に見初められて側室となりました。

夫の家光亡き後には仏門に入り「 桂昌院(けいしょういん) 」と名乗ります。

侍女から将軍の母に大出世した玉の輿人生を送った女性です。

さて、綱吉はもともと側室の息子であり、家光の4番目の息子

将軍になるのを期待されてはいませんでした。

綱吉の兄・家綱(いえつな)は、将軍家を継ぐべく江戸城内で育てられ、順調に4代将軍となりました。

その間、綱吉は神田で、めったに父親の家光に会うこともなく、ろくに外出もできない屋敷生活。

閉鎖された環境の中で母親の桂昌院とべったりと暮らしていたとか。

その環境が綱吉の特別な精神構造を作り上げたかもしれません。

綱吉は母親が病気になると、自らあんまをしたり、食事介助をしたそうで、それは将軍としては異例のことだそうです。

また、悪法と言われる「 生類憐れみの令 」を綱吉に勧めたのは桂昌院だとされています。

もともと庶民の娘だった彼女は、幕府の幹部たちの誰よりもよく知っていた世の中の乱れを法令で正したかったのかもしれません。

法令の中には、かなりまっとうな「 病人、老人、子供をいたわろう 」などの項目もあるのです。

それに、儒教を尊ぶ綱吉は、孝行をまじめに実践する人でした。

そんな彼が母親の意見を無下にするわけがありません。

その結果綱吉は「 マザコン 」「 母親のいいなりに悪法まで作った 」と言われてしまったのでしょうね。

仕方無かったかも・・・。

忠臣蔵と水戸黄門の悪役、綱吉

1701年3月14日、江戸城内で、勅使饗応役の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が勅使饗応指南役の吉良上野介(きらこうずけのすけ)を斬りつける、という松の廊下の刃傷(にんじょう)事件が起きました。

朝廷からの勅使を迎える大事なイベントを台無しにされた綱吉は激怒し、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂藩はお取りつぶし、お家断絶に。

家臣たちは浪人となります。

そして、綱吉は一方的に浅野内匠頭だけを処罰して、喧嘩両成敗にしなかった、と非常に恨まれる存在になります。

のち、赤穂浪士たちはあの有名な吉良邸討ち入りを決行。

その後綱吉は、彼らの死罪か切腹か助命かの選択について、実に40日間もかけて決定を下しました。

そして、最終的に浪士たちの「 忠義 」を認め、死罪にはせず、切腹としたのです。

そこには儒教を尊ぶ綱吉の考えがあらわれていますね。

文治政治を推進していた綱吉は、武力によって解決しようとする刃傷事件を許しませんでした。

しかし、犯罪である討ち入り行為に儒教精神を見た綱吉の考え方には彼なりの「 正義 」があったというわけです。

綱吉の不運は「 水戸黄門 」こと徳川光圀の存在でした。

将軍家にも平気で文句を言ってくる怖いものなしの光圀。

生類憐れみの令に抗議して犬の毛皮を何枚も綱吉におくったといわれる逸話もあります。

光圀には綱吉に直言したという記録もいくつかあり、綱吉にとっては扱いにくい人物でした。

そんなわけで、「 悪者 」の綱吉の思うようにはさせない「 正義 」の水戸黄門、といった構図がドラマや芝居の中に出来上がってしまいました。

おわりに

綱吉は、歴史家の中では戦国を引きずり荒々しかった世相から、

命を大事にする泰平の世へと変革した人物として昨今高く評価されつつあります。

しかし、私たち国民に深く根付いてしまった「 生類憐れみの令 」「 水戸黄門 」「 忠臣蔵 」の悪評のダメージは大きく、

まだまだ綱吉の受難はつづきそうです・・・。

 

徳川綱吉の【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku