徳川綱吉はどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

徳川五代将軍といえば、なんといっても天下の悪法「生類憐れみの令」を作ったトンデモ将軍「 犬公方(いぬくぼう) 」のイメージが強いですね。

最近の研究では綱吉の政治手腕も見直されているようですが・・・。

さて、この徳川綱吉は一体どんな人物だったのでしょうか。

 

徳川綱吉はどんな人?

プロフィール
  • 出身地: 江戸(現在の東京都)
  • 生年月日: 1646年2月23日
  • 死亡年月日: 1709年2月19日(享年 64歳)
  • 儒学を尊び、文治政治を推進した江戸幕府5代将軍。生類憐れみの令によって世の中を良くも悪くもしたのめり込みタイプのリーダー。

 

徳川綱吉年表

年表

西暦(年齢)

1646年(1歳)3代将軍・徳川家光の四男として江戸城にて誕生。

1651年(6歳)父・家光が死去し、一番上の兄・家綱が4代将軍になる。

1653年(8歳)4代将軍・家綱の右大臣昇進に合わせて元服し、綱吉と称する

1661年(16歳)上野館林藩主として所領25万石の城持ち大名となる。

1680年(35歳)5代将軍となり、堀田正俊を大老とする

1684年(39歳)大老・堀田正俊が若年寄・稲葉正休にて刺殺される

1687年(42歳)殺生を禁止する法令を制定する(生類憐みの令)

1691年(46歳)湯島聖堂を建立する

1709年(64歳)死没

予期しなかった将軍職で儒教精神を実践する没頭型リーダーに

3代将軍徳川家光の4男として1646年に江戸城にて誕生しました。

綱吉は4男で側室の息子でしたので、将軍となることは期待されませんでした。

しかし、家光の長男だった4代将軍家綱に世継ぎとなる男子がおらず、3兄の綱重も亡くなったため、綱吉は家綱の養子になり、5代将軍となりました。

父親の家光に儒学をたたき込まれていた綱吉は、その頃の戦国時代からの殺伐とした気風を排除し、徳を重んじる文治政治を推進。

学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど勉学に熱心でした。

儒学は隆盛を極め、新井白石、荻生徂徠(おぎゅうそらい)など優秀な学者が多く世に出ます。

綱吉の文治政治は、天和の治と呼ばれ、讃えられました。

1684年に綱吉の右腕として活躍した大老・堀田正俊を亡くした後、綱吉は側用人の牧野成貞(まきのなりさだ)、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)らを重用。

儒学の「 孝 」の考えに影響され、母親の桂昌院(けいしょういん)に従一位という前例のない高位を朝廷から賜るなど極端な計らいをしています。

生類憐れみの令を発布し、タイミングの悪い貨幣の改鋳で、世の中が混乱。

しかも、1692年頃から饑饉や京や江戸の火事、地震に火山の噴火などの天災・事故が多発し、後半の治世は上手くいきませんでした。

1709年、5代将軍徳川綱吉は成人麻疹(ましん/はしか)で江戸城にて死没。

享年64。

生類憐れみの令

後継ぎとなる息子に恵まれない綱吉を母桂昌院は心配しました。

信頼する僧侶に

世継ぎがいないのは、前世での殺生の報いだ

と告げられます。

その災いを取り除くため、綱吉が極端な動物愛護の法令を作ったとも、戦国時代からの野蛮な気風をあらため、命の大切さを啓蒙するための法令だったとも言われています。

どちらにしろ、儒教精神を重んじた綱吉の思惑と、母親桂昌院の影響はあったと思われる生類憐れみの令。

この法令は、1685年から何年もかけて禁止項目が増えていく形で成立しました。

「 子、老人、病人を大切にしよう 」という、まともな内容のものから、その中身はだんだんエスカレート。

鳥や魚、貝類やにいたるまで殺傷を禁じ、守らなかった者には、流刑や死罪などの厳罰も。

違反者を密告した者には報奨金が用意されるほどでした。

ただ、戌年生まれの綱吉が、狂信的に「 お犬様 」ばかりを大事にしたわけではなく、当時、江戸の社会問題であった野犬を殺さず、巨大な犬小屋に収容するなどしました。

悪法とされる面ばかり強調されますが、捨て子や、辻斬り、人殺しは激減し、一定の効果は見られました。

とはいえ、そのための税金の取り立てなどで江戸市民や、周辺農民たちは負担を強いられ、不満は大いにありました。

この生類憐みの令は、綱吉が亡くなるまで24年間続き、次の代の将軍家宣(いえのぶ)になったとたんに打ち切られることになります。

 

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極端な能狂いの綱吉

儒学の勉強でも、生類憐れみの令でも、どうも綱吉は極端に走る傾向があったようです。

実は、彼は「 能狂 」と呼ばれるほどの能好きでした。

自分で能を舞い、無理矢理大名や公家たちに見せ、大名や側近にも能を舞うことを強要したといいます。

見せられるのも演じさせられるのも大迷惑な話しでしたが、断れない人々は従うしかありません。

綱吉は、能役者たちに流派を無視した無理を言い、背けば江戸追放もしました。

珍しい古典を見るのが好きな綱吉は、能役者たちに廃れた題目を演じさせましたが、これも演じる数日前に頼まれる能役者にしてみれば、迷惑でしかなく、大慌てで古典を復活させたといいます。

こんなことを続けていたら、綱吉の逸話が悪意を持って流布されるのも無理はないですよね。

 

綱吉の死因

綱吉は64歳でなくなりましたが、その死因については成人麻疹によって亡くなった、もしくは、麻疹にかかっていた時、正月の餅を食した後に、厠で用便中に食べた物をもどし、それが気管に詰まって窒息死をしたと言われています。

しかし、ここに江戸城の「 開かずの宇治の間 」に関わる話しがあります。

世継ぎに恵まれなかった綱吉は、側用人・柳沢吉保の息子吉里(よしさと)を迎えようとします。

真偽のほどはわかりませんが、綱吉は吉里が自分の息子だと思っていたのです。

しかし、周囲や綱吉の正室の鷹司(たかつかさ)信子は猛反対。

そして、信子は宇治の間で説得に応じない綱吉を懐剣で殺害し、自分も自害したというのです。

幕府の発表では麻疹で綱吉が亡くなり、しばらくして信子も亡くなったとされましたが、それを怪しむ人は多かったということです。

綱吉の死後、江戸城の宇治の間は開かずの間となりました。

狩野派の描いた美しい絵を保護するために、もう宇治の間は開けない、というのが幕府の言い訳だということですが・・・。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

徳川綱吉について簡単にまとめると、

① 偶然が重なり転がり込んだ将軍職で文治政治の基本を示した将軍

② 儒教と母親を信じて生類憐れみの令で治世しようとしたリーダー

③ 信じ込むと周囲を巻き込む没頭型の人

と言えるのではないでしょうか。

その他にも徳川綱吉にまつわる記事を書いています。

よろしければどうぞご覧ください。

 










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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku