江戸幕府を開いた徳川家康がこの世を去って約400年の月日が流れました。
江戸幕府は264年もの長い間続き、その後、明治、大正、昭和と年号を変え現代の平成に至っています。
徳川家康はこの間も、子孫や関八州などを見守ってきたと思われます。
日光や久能山など家康のお墓の場所にまつわるエピソードを加え探ってみましょう。
家康の遺言
家康は死に際していろいろな遺言をしていますが、
自分の墓については次のように言っています。
遺言の通りにすべてがおこなわれました。
日光には秀忠によって小さなお堂が建てられたのですが、三代目の家光の時大改修を行い今の立派な日光東照宮となったのです。
久能山
家康の遺言通り、その遺体は久能山に埋葬されました。
当然昔は土葬でした。
家康は久能山から「西日本の各国に睨みをきかす」ということで、立ったまま葬られたそうです。
江戸幕府を開いたからといって、自分の亡き後徳川家が安泰であるか不安があったのでしょう。
日光東照宮
家康の墓所として観光名所となっている日光東照宮ですが、
家康の遺言通り、最初は小さなお堂が建てられ、家康の魂を移す勧請が行われたそうです。
この時遺体も日光に移したとされる説もありますが、実際にはこれは難しいと思われます。
土葬を掘り返し、遺体の一部だけを移すなんてことは誰もしたくないことです。
おそらく魂だけを移したのでしょう。
この小さなお堂は三代将軍家光の時代に大改修されました。
日光東照宮は江戸から見てほぼ真北に位置し、日光東照宮と
・湯島天神
・神田明神
・将門首塚
・日枝神
・芝増上寺
これらの寺を結ぶと、北斗七星になるという都市伝説もあります。
ここで家康は、関八州の平和を守ろうとしたんですね。
・相模
・武蔵
・安房
・上総
・下総
・常陸
・上野
・下野
きょうのまとめ
徳川家康の墓というと日光の方がピンときますね。
でもご遺体は久能山におり、子孫の徳川宗家も毎年久能山に墓参りに行くそうです。
家康は死してなお久能山と日光から、今も平和を願っているのかもしれませんね。
忍耐強かった家康なら十分ありうることです。
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葬儀は増上寺で行い、位牌は三河大樹寺にたてること。
そして一周忌が過ぎたら日光に小さな堂を建て勧請(魂を移すこと)しなさい。
関八州を見守るから。