徳川家康といえば、天下統一によって戦国時代に終止符を打ち、264年も続く江戸幕府を成立させるという、日本史上のターニングポイントを担った人物。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
と句に例えられるように、信長・秀吉という精鋭が同時期にいながらも、じわじわと粘り腰でその地位を確立していったことは有名ですよね。
成功の前にどれほどの苦労があったか、知れば知るほどその忍耐強い人物像が浮き彫りになってきます。
今回は徳川家康がどんな人物で、どんな生涯を過ごしてきたのか、その生き様を辿っていきましょう。
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徳川家康はどんな人?
- 出身地:三河国(現在の愛知県東部)
- 生年月日:1543年1月31日
- 死亡年月日:1616年6月1日(享年73歳)
- 織田信長・豊臣秀吉のあとを引き継ぎ、天下統一を達成。のちに264年続く江戸幕府を設立した。
徳川家康 年表
西暦(年齢)
1543年(1歳)三河の大名・松平広忠の嫡男として岡崎城にて生まれる。
1547年(4歳)今川家へ人質として送られるはずが、今川家家臣の裏切りによって織田家の人質に。
1549年(6歳)父・広忠が死没。今川家に捕らえられていた織田信広との人質交換で今川家の人質に。
1555年(12歳)元服(成人)。今川義元の姪・筑山殿と結婚。
1560年(17歳)「桶狭間の戦い」に今川軍として参加。今川義元が織田信長に討たれたことで自由の身となり、岡崎城へ帰還。
1562年(19歳)織田信長と清洲同盟。今川家との関係を断絶。
1564年(21歳)一向宗の寺院との権利争いにより、「三河一向一揆」が勃発。
1568年(25歳)武田信玄と同盟を結び、今川領への侵攻を開始。
1569年(26歳)今川氏真を下し、遠江を支配下に。武田家から侵攻を受けたため同盟は破棄、敵対関係に。
1570年(27歳)岡崎城から遠江へと本拠地を移し、浜松城を建設。「金ヶ崎の戦い」「姉川の戦い」で信長を助ける。
1572年(29歳)武田信玄が遠江・三河の侵攻を開始。「一言坂の戦い」「二俣城の戦い」「三方ヶ原の戦い」で惨敗を喫し、1,000人以上の家臣を失う。
1575年(32歳)「長篠の戦い」で武田家を下し、奪われた拠点を取り戻す。
1579年(36歳)正室の築山殿と嫡男・信康が武田勝頼と通じていたことで信長の怒りを買い、築山殿の殺害、信康の切腹を命じる。
1582年(39歳)織田信長と協力し、武田家を滅亡に追い込む。同年、織田信長が没したため甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヵ国を領有。
1584年(41歳)豊臣秀吉と対立し「長久手の戦い」に発展。次男の於義丸を養子に贈ることで和睦する。
1586年(43歳)秀吉の妹・朝日姫と結婚。大阪城にて諸大名の前で秀吉への忠誠を誓う。
1587年(44歳)豊臣政権の指示で関東・奥両国(山形と秋田)の監視を任される。北条家に秀吉の配下になるよう促す。
1590年(47歳)秀吉と協力して北条家を討伐。領有していた5ヵ国を明け渡し、旧北条領を含む関東八州を与えられ、江戸城に本拠地を移す。
1598年(55歳)秀吉の跡継ぎ・秀頼を補佐するための五大老の筆頭に家康が任命される。秀吉没後は、豊臣家家臣の石田三成らの反感を買い、対立。
1600年(57歳)「関ケ原の戦い」にて東軍を率い、石田三成率いる西軍を破り、天下を統一。
1603年(60歳)朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を成立。
1605年(62歳)嫡男・秀忠に将軍の座を譲り隠居。駿府へ移り大御所として、幕府の制度作りに尽力。
1609~1613年(66~70歳)オランダ・イギリスとの交易を許可するなど積極的な外交を行う。
1614~1615年(71~72歳)徳川家が将軍の座にあることに反感を示していた豊臣家を「大坂冬の陣・夏の陣」を経て滅亡させる。
1615年(72歳)武家諸法度・一国一城令などを制定し、日本全国の支配を実現。
1616年(73歳)駿府城にて病没。
徳川家康の生涯
1543年1月31日、三河国大名・松平広忠の嫡男として、岡崎城で誕生した徳川家康。
幼名は竹千代といい、徳川家康を名乗るのは20歳のころ、三河の大名として独立してからの話です。
なんでも「徳川」は先祖の住んでいた群馬県の地名で、「家」は尊敬する源義家の名前から取ったといいます。
そう、松平家は先祖をずっと辿っていけば源氏へと繋がる由緒ある家系なのです。
しかし家康が生まれたころの勢力は心もとなく、彼は幼少期、その運命に翻弄されることになります。
人質として過ごした不遇の幼少期
家康が生まれた当時、松平家は三河を領有していたものの、
・尾張(愛知県西部)の実力者である織田家
の板挟みになり、非常に弱い立場にありました。
当主の広忠は両者の抗争に巻き込まれないよう、今川家に援護を頼んでいたのですが、家康にとってはこのことが悲劇の始まりだったといえます。
家康が3歳のころ、母・於大の実家である水野家が織田家と同盟を結んだことにより、今川家ににらまれることを嫌った広忠が、於大を離縁。
物心つく前から母親と別れさせられたかと思えば、次は今川家に守ってもらう代償として、家康自身が人質に差し出されることになります。
ただこれもすんなりとはいかず、今川家家臣の裏切りで一度は織田家に渡り、そののちに今川家に囚われるというたらい回し状態に。
10歳にも満たない子どもにとって、諸国を渡り歩いての囚われの身とは、どれほど心細いものだったか…。
いいように考えれば、この時期が家康の忍耐の基礎を作ったともいえますね。
今川家からの独立・織田信長との同盟
家康が今川家から解放されたのは、1560年の「桶狭間の戦い」がきっかけでした。
この戦いで織田信長が、今川軍を下し、今川義元が没したためです。
すっかり怖気づいた今川家は三河の領地や家康からも手を引き、家康は晴れて岡崎城へ帰ることができました。
17歳にして、ようやく自由の身です。
そして信長は
・今川配下としての家康の実力や、三河の家臣たちの結束を買っていた
などから、家康と清洲同盟を結びます。
この同盟は1582年の「本能寺の変」にて信長が没するまで続き、家康に地位を確立させる大きな足掛かりとなりました。
勢いづいた家康は氏真の代になって衰退した今川家を早々に下します。
武田家には「三方ヶ原の戦い」で一度は煮え湯を飲まされたものの、武田信玄が病没したことや、信長の協力によって滅亡まで追い込みます。
こうして三河の弱小大名だったはずの家康は、39歳のころには
・遠江
・三河
・甲斐
・信濃
の5ヵ国を有する大大名へと成り上がったのでした。
この時期のキーとなっている信長との同盟は、母方の水野家の取り立てという話も…
幼少期の苦悩がすべて報われていますね。
豊臣政権の成立・関東への移封
信長が亡くなるとその家臣・豊臣秀吉が台頭したことは多くの人が知るところです。
しかし、信長が築いた基盤は本来なら織田家の子息が受け継ぐもので、秀吉がそれを牛耳ったことは波乱を呼びました。
家康も信長への忠義からか、信長の次男・信雄に協力して、「長久手の戦い」で秀吉と対立します。
しかしほとんど両者のにらみ合いで決着が着かず、結局は和睦の流れに。
このとき結ばれた両家の関係は豊臣優勢のもので、2年後の1586年には、家康が大坂城に出向き、秀吉への忠誠を誓っています。
家康をわざわざ大坂に呼んでひざまずかせたのは、秀吉が農民からの成り上がりということもあり、諸大名たちから認められていなかったためです。
長久手の戦いの和睦で両者の上下関係は決まっていたものの、世間にそれを知らしめる必要があったのですね。
それでも秀吉を認めなかった北条家は、のちにこの両者によって滅ぼされることになります。
その折、家康は領有していた5ヵ国を明け渡し、北条家の旧領を含む関東八州を任されることに。
領土は119万石から250万石までに増えました。
一見してこれは秀吉からの厚遇に見えますが、関東には北条の残党がはびこっていたり、北条家が確立した税の制度が儲からないものだったりと、治めていくのは大変な状況だったという話もあります。
秀吉は家康に不便な領土を与え、反乱を起こされないようにと考えていたのかもしれませんね。
天下統一・江戸幕府の成立
1598年になると秀吉が病没したことでその地位が嫡男の秀頼へと受け継がれます。
このとき秀頼は年端もいかない少年で、権力を握ったのは実質、その補佐役を任された家康でした。
これを見て黙っていなかったのが石田三成や前田利家など、一部の豊臣家家臣です。
と彼らが反感を唱えると、互いに暗殺を企てたり、その地位を剥奪したりと抗争がどんどんエスカレート。
挙句の果てには1600年の「関ケ原の戦い」で、お互い10万近い軍勢がぶつかり合う事態になるのです。
家康はこの戦いを制し、豊臣家の反対勢力を封じ込めたことで晴れて天下統一を果たします。
そして1603年、朝廷から征夷大将軍の座に任命されたことで、江戸幕府を成立させました。
ここから家康は
・武家諸法度や一国一城令の制定
などの政策を駆使して、幕府への反乱が起きない体制を確立していきます。
以降も「大坂冬の陣・夏の陣」で豊臣秀頼と対立するいざこざはありましたが、1616年、73歳で没するまでに不安要素をすべて排除し、家康は完璧な状態で次代へのバトンを繋いだのでした。
きょうのまとめ
徳川家康の生涯を辿ると、晩年までは織田信長・豊臣秀吉の陰に隠れ、常にナンバー2の座にいたことがわかります。
時代を担った実力者の立ち振る舞いを間近で体感し、十二分に下積みをしてきた家康だからこそ、完成された江戸幕府の制度にも辿り着いたのでしょうね。
最後に今回のまとめです。
① 徳川家康は17歳まで他国の人質として不遇の時代を過ごした
② 今川家からの独立後は織田信長との同盟によってその地位を確立していく
③ 豊臣秀吉が死没し、その後の権力争いに勝ったことで天下人となる
ナンバー2に慢心せず志をもち続けたから、彼は最後に天下人になれたのでしょう。
人生最後までどんなチャンスが待っているかわからないものです。
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