徳川家康の後継ぎ、二代目将軍
徳川秀忠。
三代目徳川家光が有名で秀忠は影が薄い印象です。
徳川秀忠はいつ、どのように亡くなったのでしょうか。
今回は徳川秀忠の死因についてお伝えします。
徳川秀忠の健康について
真面目で大人しい性格といわれている徳川二代目将軍、秀忠。
勉強好きであまり活発なイメージはありません。
しかし発掘調査研究によると、秀忠は筋肉質であったことが判明しています。
また骨には複数の弾痕が見つかり、最前線での指揮をとっていたことも分かります。
つまり、真面目で大人しい性格だけではなく、ときには力強い武将であったことも判明しているのです。
記録としては秀忠の病歴は記載が無く、非常に健康的な人であったとされています。
徳川秀忠の死因について
徳川秀忠は寛永8年(1631)に発病し、翌9年1月24日に54歳で亡くなったとされています。
父の家康は75歳で亡くなっていますので、それに比べると短い一生ではないでしょうか。
秀忠の死因は、一般的には「胃がん」だと言われています。
「全身に腫れ物が出来た」という資料が残っており、「悪性リンパ腫」の可能性もあります。
実は父の家康も「胃がん」です。
親子同じ病気であった可能性もあり、遺伝・家系という見方もできそうです。
一般的には胃の不調はストレスが原因であることが多く、戦国の世、多くのストレスがあったのではないでしょうか。
ちなみに三代目将軍家光は幼少の頃から病気がちで、死因は脳血管疾患、脳出血だったと言われています。
遺言により質素な葬儀
真面目な秀忠は質素な葬儀を行うよう遺言を残しました。
その遺言は
葬儀・法会とも倹約を旨とし、霊牌の他、新しく作るべからず
とあったと言われています。
遺言通り、土井利勝及び近臣10人程度で奉供するのみで、僧侶はひとりも従いませんでした。
葬儀は行わず、密かに増上寺に遺体を移されます。
増上寺に葬られた秀忠の棺はヒノキ製の死者のあったおとき、間に合わせで作る早桶と呼ばれるものでした。
初代徳川家康、三代目家光とは異なり、非常に質素な葬儀でした。
きょうのまとめ
徳川秀忠の死因について見てきましたが、いかがでしたでしょうか
徳川秀忠の死因について簡単にまとめると、
① もともとは筋肉質で健康的な人
② 死因は父家康胃と同じ胃がんであった可能性が高い
③ 葬儀は遺言により質素に行われた
と言えるのではないでしょうか。
徳川秀忠については、他にも色々な記事があります。
よろしかったらご覧になってみて下さい。
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