1979年、イギリス初の女性首相に就任した
マーガレット・サッチャー。
イギリス経済の立て直しを図り、強靭な意志を持って改革を推し進める姿勢は、
現在でも賛否両論の対象となり、「鉄の女」というあだ名も付けられました。
サッチャーとは一体どんな人物だったのでしょうか。
今回はその生涯から人物像を探っていきましょう。
タップでお好きな項目へ:目次
サッチャーはどんな人?
- 出身地:イギリス
- 生年月日:1925年10月13日
- 死亡年月日:2013年4月8日(享年87歳)
- イギリス初の女性首相。強靭な精神を持って政策を推し進めるところから「鉄の女」と呼ばれた。
サッチャー 年表
西暦(年齢)
1925年(0歳)イングランド東部、リンカンシャー・グランサムで誕生。食料品店を営む父は地元で市長を務めた経験があり、サッチャーは生涯を通して父を尊敬するようになる。
1947年(22歳)オックスフォード大学で化学を学んだ後に卒業。在学当時は経済学も熱心に勉強していて、これが後の政治思想につながっていく。卒業後に就職し、コロイド化学を専門とする研究者になる。
1950年(25歳)保守党から下院議員選挙に立候補すも落選。翌年に結婚し、法律の勉強を本格的に始める。
1953年(28歳)弁護士資格を取得する。
1959年(34歳)下院議員に初当選する。
1970年(45歳)ヒース内閣で教育科学相を務める。予算削減のため学校の牛乳無償配給を廃止したところ、猛烈な抗議を巻き起こし、「ミルク泥棒」と非難される。
1974年(49歳)選挙で保守党敗北。サッチャーは翌年の保守党党首選挙で当選する。この年から「鉄の女」の異名が世間に広がっていく。
1979年(54歳)イギリス経済の立て直しを目標に新自由主義をかかげた選挙で当選。イギリス初の女性首相となる。
1982年(57歳)アルゼンチン軍がイギリス領であるフォークランド諸島に進軍。これに対し、イギリス陸海空軍さらに特殊部隊を派遣し、アルゼンチン軍を撃退した。これにより人気の上がったサッチャー政権は3度にわたり総選挙を乗り切るが、終盤には人頭税導入により支持率が低下していく。
1990年(65歳)イギリス首相、保守党党首を辞任する。その後は講演会や著書の出版などの活動に専念する。
2013年(87歳)4月8日、脳卒中により死去。
サッチャーの生涯
ここからは早速、サッチャーの生涯を功績と共に辿っていきましょう。
研究者から政治家へ
オックスフォード大学時代に化学を勉強する一方で、
経済学にも傾倒し、大学内の保守党協会で議長も務めていたサッチャー。
彼女は大学卒業後、一度は化学分野の研究員として就職しますが、
25歳のとき保守党の候補者として総選挙に出馬します。
結果的にはこの年と翌年の選挙ではどちらも落選することになります。
しかしサッチャーが出馬した選挙区では彼女が
・唯一の女性だったこと
が注目を集め、ライバル党の票を大幅に減らすことに成功しました。
その後結婚し、パートナーの支援を受けて本格的に法律の勉強をしたサッチャーは、
28歳のときに法廷弁護士の資格を取得後、34歳のときに選挙で初当選を果たし、
遂に政治家としてのキャリアをスタートさせました。
「ミルク泥棒」事件
晴れて政治家となったサッチャーはその後、保守党内閣で財務次官を務め、
さらに保守党内の大蔵省に所属し、政府の意見発表を担当するスポークス・ウーマンとして
順調に活躍の場を広げていきました。
サッチャーと言えば、「鉄の女」という代名詞的なあだ名で有名ですが、
それよりも前に実は彼女につけられたあだ名がありました。
それが「ミルク泥棒」です。
政治家として順調にキャリアを築いていたサッチャーが45歳を迎えた頃、
彼女は保守党内閣で教育科学大臣に就任し、
当時無駄が多かった教育予算の削減に取り組んでいました。
その際、学校で7歳~11歳の児童に国費で牛乳を無償配給している点に着目し、
栄養が目標摂取量に達していればいいと判断した彼女は、
その制度を大幅に縮小することにします。
しかしこれに対し、ライバルの労働党やマスコミが猛烈に反発し、
サッチャーは「ミルク泥棒」として非難されることになったのです。
その一方で彼女は、当時のイギリスでは義務教育の統一制度が定まっていないなか、
中等学校の古いカリキュラムを見直し、結果的に生徒数を増やすなどの功績も残しています。
「鉄の女」の時代
サッチャーに転機が訪れたのは1979年、彼女が54歳を迎えたときでした。
当時労働党政権化で続いていたイギリスの深刻な経済難を克服するため、
公共事業の削減と民営化を進める「小さな政府」を実現目標にかかげ、
総選挙で見事当選します。
このときに既に保守党の党首になっていた彼女は、英国初の女性首相となったのです。
首相となったサッチャーは、持ち前の強靭な性格で政策を押し進め、
「鉄の女」としてイギリス経済の立て直しのために奔走します。
彼女が在任した80年代のイギリスは、それまでの社会保障や福祉政策が大きく見直され、
財政の出費を抑え資本主義本来の市場原理を保証する「新自由主義政策」がとられました。
多くの事業が民営化され、自由競争による経済の活性化が期待される一方で、
社会保障費の削減により失業者や貧困層などからの非難も多く上がることになります。
サッチャーがかかげた「小さな政府」や「民営化」などを基本にした政策は、
「サッチャリズム」と呼ばれ、後に各国の保守党のモデルとなりました。
関連記事 >>>> 「「鉄の女」と呼ばれたサッチャー その由来とエピソード」
「鉄の女」の最期
嫌われることを恐れず、強い意志で政策を進めたサッチャー。
その強引な国内改革と戦争をも辞さない決断力は国民に頼もしさを与える一方で、
同時に強い反発心を招くきっかけにもなりました。
大英帝国の復活を目指していた彼女は欧州統合の動きに反発し、
国際的に孤立していくことになります。
そして経済の立て直しのための新自由主義政策も、徐々に国内での格差を広めることになり、
国民の不安は募っていきました。
最終的には人頭税を導入したことで国民の信頼を一気に失い、
1990年にサッチャーは政治の表舞台から退きます。
晩年は著書の出版や講演会などを行い、2013年に87歳でその生涯を終えました。
関連記事 >>>> 「サッチャーの名言「鉄の女」の遺した言葉」
サッチャーにまつわるエピソード
ここでは、少し切ないサッチャーの晩年のエピソードを1つご紹介します。
政界を引退したサッチャーはその後認知症を発症し、
徐々に現役時代に自分が行った政策の内容を忘れていったといいます。
しかし晩年の彼女と会った人の証言では、身近な出来事を認知できなくなっていた一方で、
現役時代のことをいきいきと話していたとも言われています。
認知症の症状が進み、入退院を繰り返すようになってからも、
街で市民に声をかけられることもあった彼女は、それが誰なのか分からなくても、
反射的に笑顔で手を振っていたそうです。
きょうのまとめ
今回は、1980年代に英国初の女性首相を務めたサッチャーについて、
その功績や全体像をご紹介しました。
サッチャーとはどんな人物だったのか簡単にまとめると
① 1979年、イギリスで初の女性首相となった保守党の政治家。
② イギリス経済の立て直しを図るため、新自由主義政策をかかげ、社会福祉の見直しや事業の民営化を進めた。
③ 強靭な性格から「鉄の女」と呼ばれ親しまれたが、一方で強引な国内改革に反発の声も多く上がり、最終的には人頭税の導入で国民の支持を失い政界から引退した。
当サイトでは、サッチャーに関する記事は他にもあります。
合わせてご覧いただくと、より彼女の人柄や功績に対する理解を深めることができると思います。
興味を持たれた方は、お時間のあるときにでもぜひのぞいてみて下さい。
その他の世界の偉人ははこちらから
関連記事 >>>> 「世界の偉人一覧」
コメントを残す