天武天皇の家族や子孫はどうなった?天武天皇の家系図を紹介します。

 

天智天皇の後を継ぎ天皇中心の中央集権国家、

律令国家を目指して政策を進めた

天武天皇

天武天皇の家族や子孫はどのような人たちだったのでしょうか。

今回は天武天皇の家系図を紹介します。

 

天武天皇の家系図

まずは、天武天皇の家系図をみていきましょう。

こちらです。

天武天皇の家系図
天武天皇の家系図

天武天皇の家族

兄 天智天皇(中大兄皇子)

天武天皇の兄は大化の改新で有名な天智天皇(中大兄皇子)です。

当時大海人皇子(おおあまのおうじ)と呼ばれていた天武天皇。

天皇中心の中央集権国家、律令国家を目指した
天智天皇(中大兄皇子)の政治改革を支えます。

後年は皇位継承問題から対立するようになりました。

この対立は天智天皇の死後に起きた壬申の乱(じんしんのらん)に発展します。

最終的に天智天皇の皇子の大友皇子(おおとものおうじ)を討った
大海人皇子が天武天皇として即位することになります。

 

妻 持統天皇

天武天皇の妻は持統天皇です。

13歳の時に天武天皇に嫁ぎました。

天武天皇の政治を支え
天武天皇が亡くなった後はそれを引き継ぎます。

飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の発布や藤原京への遷都を行います。

天智天皇と天武天皇と続いた
天皇中心の中央集権国家、律令国家への改革を完成させました。

息子 草壁皇子(くさかべのおうじ)と大津皇子(おおつのおうじ)

次期天皇には鸕野讚良(うののさらら)皇后(持統天皇)を母にもつ
草壁皇子が決まっていました。

しかし、草壁皇子の異母弟で同じく天武天皇の皇子の大津皇子
即位に不満を持ち謀反を計画します。

686年、天武天皇が亡くなると皇位継承を巡って
大津皇子が謀反の疑いで処刑される事件が起きました。

計画は密告によって発覚しました。

実は大津皇子が息子の草壁皇子の政敵になることを恐れた
鸕野讚良皇后(持統天皇)の陰謀だったという説もあります。

その後、天皇に即位する前に草壁皇子も病死してしまい
鸕野讚良皇后が中継ぎの天皇として即位することになりました。

 

天武系最後の天皇

持統天皇以降、
天武天皇の直系の子孫が続いて天皇に即位します。

天武天皇から5代目の子孫にあたる称徳天皇が最後になりました。

称徳天皇は愛人の道鏡(どうきょう)に天皇の座をゆずろうとしたことで有名です。

称徳天皇は生涯独身で子どもがいなかったため、
彼女の後は天智天皇の子孫光仁天皇(こうにんてんのう)が即位することになりました。

 

臣下として血統を繋ぐ

称徳天皇以降は、
天武天皇の直系の子孫は天皇なることはありませんでした。

しかし子孫達の一部が臣籍降下(しんせきこうか)し血統を繋ぐことになります。

臣籍降下とは皇族が氏姓を与えられ臣下になることを指します。

清原氏

清原氏の始祖は天武天皇の皇子の舎人皇子(とねりのおうじ)になります。

平安時代には清原深養父(きよはらのふかやぶ)や
清少納言などの優れた歌人や文人を排出しました。

室町時代には舟橋氏と姓を変え、
漢文や儒学の研究者の家として朝廷に長く仕えます。

明治時代以降は華族となり子爵(ししゃく)の位を与えられました。

高階氏(たかしなし)

高階氏は天武天皇の皇子である高市皇子(たけちのおうじ)を祖としています。

平安時代には中堅貴族として健闘しますが藤原氏などの勢力に推されて
衰退していきます。

公家になれなかった高階氏の一部は武家になりました。

武士になった代表的な人物として
高師直(こうのもろなお)がいます。

高師直は鎌倉時代後期から室町時代にかけて足利氏に仕え活躍しました。

また豊臣秀吉に仕え江戸時代には大名になった、
堀尾吉晴(ほりおよしはる)も高階氏の末裔といわれています。

 

きょうのまとめ

天武天皇の家系図を紹介しました。

いかがでしたでしょうか。

簡単にまとめると

① 兄は中大兄皇子、妻は持統天皇である

② 天武天皇の死後は大津皇子が草壁皇子の即位に不満をもち謀反の計画を立てる

③ 天武天皇直系の子孫で最後の天皇は称徳天皇である

④ 天武天皇の子孫は臣下として血筋を残す。

と言えるのではないでしょうか。

天武天皇については他にも、いくつか記事がございますので

よろしかったらご覧になってみてください。

 










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