2人で作った律令国家!天武天皇と持統天皇の夫婦関係とは?

 

協力して日本を天皇中心の中央集権国家、律令国家にまとめた

天武天皇と持統天皇。

2人は古代史上最も重要な夫婦といっても過言ではありません。

今回は天武天皇と持統天皇の関係を紹介します。

 

天武天皇と持統天皇はどんな人物

はじめに天武天皇と持統天皇について

簡単なプロフィールをご紹介させていただきます。

天武天皇

第40代天皇

天皇に即位前は大海人皇子(おおあまのおうじ)と呼ばれる。

兄は天智天皇。

天智天皇から政策を引継ぎ、天皇中心の中央集権国家、律令国家を目指す。

持統天皇

第41代天皇

第40代天武天皇の皇后。

即位前は鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ)と呼ばれる。

夫である天武天皇の政治を支え、
天武天皇の死後は天皇に即位し政策を引き継ぐ。

 

天武天皇と持統天皇の結婚生活

叔父と姪の結婚

657年 持統天皇が天武天皇のもとに嫁ぎます。

持統天皇は若干13歳でした。

当時天武天皇は大海人皇子
持統天皇は鸕野讚良皇女と呼ばれていました。

鸕野讚良皇女は
大海人皇子の兄である中大兄皇子(天智天皇)の娘です。

したがって大海人皇子と鸕野讚良皇女は叔父と姪になります。

大海人皇子には既に多くの妻や愛人がいました。

結婚当時の鸕野讚良皇女は、皇女とはいえ多くの妻の中の一人でした。

吉野で絆を深める

吉野の隠遁(いんとん)生活及び壬申の乱(じんしんのらん)は
大海人皇子と鸕野讚良皇女の関係の転機になりました。

隠遁生活: 世俗から離れ山の中でひっそりと暮らすこと

天智天皇が息子の大友皇子に天皇の座を譲ることがわかると
命の危険を感じた大海人皇子は吉野に逃れます。

その頃、鸕野讚良皇女は、大海人皇子の妻の中で、
一番身分が高くなっていました。

大海人皇子の女性達の中で吉野についていったのは鸕野讚良皇女だけでした。

672年、天智天皇が亡くなります。

大海人皇子は大友皇子を相手に壬申の乱を起こし、勝利します。

鸕野讚良皇女も大海人皇子と共に戦いました。

この一連の流れで2人の信頼関係が深まり、
夫婦を超えた政治的なパートナーになったと思われます。

なお鸕野讚良皇女は持統天皇と即位した後も、吉野を度々訪れます。

吉野は持統天皇にとって天武天皇との大切な場所であり、

政治の原点だったのでしょう。

天武天皇の治世

天武天皇の治世では鸕野讚良皇女が
皇后として天武天皇の政治を助けました。

大海人皇子が天武天皇に即位すると
鸕野讚良皇女は皇后に即位します。

飛鳥浄御原宮(現在の奈良県明日香村)に都が置かれました。

天武天皇は天智天皇の政治路線を引き継ぎ、
天皇中心の中央集権国家の確立を目指します。

さらに天皇の権力を強化するため大臣を置かず、
要職を皇族に就かせる皇親政治(こうしんせいじ)を行いました。

鸕野讚良皇女も政治に携わり
常に天武天皇に側にいて政治についての助言をしたといわれています。

鸕野讚良皇女は公私共に天武天皇にとって
無くてはならない存在になりました。

天武天皇の遺志を継いで政策を進める。

686年天武天皇が亡くなると、
690年に鸕野讚良皇女が持統天皇として即位します。

息子の草壁皇子(くさかべのおうじ)が即位する予定でしたが、
急死したため、持統天皇が中継ぎとして即位しました。

持統天皇は天武天皇の政策を引き継ぎ、
飛鳥浄御原令の発布や藤原京遷都を行いました。

飛鳥浄御原令は、
確認される日本最古の律令(法と刑罰)です。

藤原京は日本史上初の本格的な首都です。

こうして天智天皇からはじまった
天皇中心の中央集権国家、律令国家への道は天武天皇を経て持統天皇が仕上げたことになります。

 

きょうのまとめ

天武天皇と持統天皇の関係を紹介しました。

いかがでしたでしょうか。

簡単にまとめると

① 13歳の時に鸕野讚良皇女は大海人皇子に嫁いだ

② 吉野での隠遁生活や壬申の乱で2人の絆は深まった

③ 天武天皇の治世では鸕野讚良皇女は皇后として夫の政治を助けた

④ 天武天皇が亡くなると鸕野讚良皇女が持統天皇として政治を引き継いだ

天武天皇と持統天皇は公私共に信頼しあうパートナーでした。

波乱万丈な時代に2人で力を合わせ

天武天皇と持統天皇が信頼関係を築いていく様子がわかりますね。

 










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