田中正造とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

田中正造の名前は、日本人ならば一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

足尾銅山鉱毒事件で、政府などを相手に闘った人ですね。

しかし、田中正造とはどんな人物だったのか、説明できる方は少ないように思えます。

そこで今回は、田中正造のハードすぎる生涯についてご紹介します。

嘘でしょ? と思うような事件が次々と起こりますよ。

 

田中正造はどんな人?

  • 出身地: 下野国(現在の栃木県)
  • 生年月日: 1841年12月15日
  • 死亡年月日: 1913年9月4日(享年 73歳)
  • 明治時代の衆議院議員。足尾銅山鉱毒問題に取り組んだことでも有名。

 

田中正造 年表

年表

西暦(年齢)

1841年(1歳)下野国の名主の家に生まれる(幼名、兼三郎)。

1857年(17歳)小中村で名主になる。

1864年(24歳)六角家の改革運動に参加する。

1868年(28歳)投獄される。

1870年(30歳)江刺県の役人となる。

1878年(38歳)栃木新聞を創刊する。

1880年(40歳)栃木県会議員に当選する。

1882年(42歳)立憲改進党に入党する。

1884年(44歳)栃木県令・三島通庸と対立し、一時投獄される。

1886年(46歳)栃木県会議長となる。

1890年(50歳)第一回衆議院議員に当選する。

1891年(51歳)足尾銅山鉱毒問題についての質問書を政府に提出する。

1896年(56歳)足尾銅山鉱業の操業停止運動を始める。

1900年(60歳)川俣事件を機に、「亡国演説」を行う。憲政本党を脱党する。

1901年(61歳)議員を辞職し、天皇に直訴するも阻止される。

1904年(64歳)谷中村の強制買収に反対する。

1913年(73歳)胃がんにより死去。

 

最後まで正義感を貫いた田中正造の生涯

田中正造は、現在の栃木県安蘇郡(あそぐん)小中村(こなかむら)の名主の子として誕生しました。

そして17歳にして、小中村の名主に選ばれています。

38歳のときには「栃木新聞」を創刊し、自由民権運動に身を投じました。

その後は栃木県会議員などを務め、第一回衆議院選挙で当選。

さらに第六回まで連続当選を果たしています。

足尾銅山鉱毒事件の際は、被害を受けた農民側に立って政府・古河財閥と闘いました。

[関連記事]

しかし解決とまではいかず、衆議院議員を辞職。

そして足尾銅山の鉱業停止を天皇に直訴しようとするも、失敗しています。

なお、この直訴状は幸徳秋水(※)が起草したものだそうです。

※幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)は明治時代の社会主義者。大逆事件で刑死した人物。

やがて鉱毒問題を避けるように、政府は谷中(やなか)村に貯水池を設けるという計画を立てます。

そこで田中は水没する谷中村に居を移し、谷中村強制買収・遊水地化計画に最後まで抵抗しました。

しかし、常に被害者の立場に立って闘い続けた田中正造は、胃がんによってこの世を去ります。

土地の売買で大儲けしたこともあった田中の財産は、政治活動に充てられ、亡くなったときにはほぼ残っていなかったといいます。

[関連記事]

 

田中正造にまつわるエピソード

自分が政界で孤立しようとも、被害農民側に立ち、政府と闘った田中正造。

その性格は正義感が大変強く、頑固とさえ表現できるかと思います。

だからこそ、足尾銅山鉱毒事件は抹消されることなく、社会問題として取り上げられることになったのです。

しかし、そういった性格が裏目に出たことが、田中正造の人生には何度もあったのです。

領主・六角家と対立して投獄

まだ田中正造が若いころ、小中村の名主だったときのことです。

ことの始まりは、領主・六角家の用人となった林三郎兵衛という人物が、従来の慣習を変えたことでした。

そのやり方に反発した田中ら名主たち(六角家はいくつか領地を持っていました)。

まだ幼かった領主の交代などを求めました。

ですが結局、田中正造は捕えられて投獄。

最終的に領内追放処分となってしまいました。

上司殺害の冤罪で投獄

田中正造は30歳にして、江差県(現在の秋田県鹿角市)の役人となります。

しかしその翌年、まさかの出来事が田中を襲いました。

上司の木村という人物が殺害され、田中がその容疑者として逮捕されてしまったのです。

結局は冤罪(えんざい)と結論付けられますが、2年9か月の間、田中は投獄されています。

どうやら原因は、田中の性格や言動をよく思わない人たちがいたからとも言われているようです。

だからといって、殺人犯に仕立てられるなんて……怖い、怖い。

県令の暗殺計画に関係したとして投獄

釈放された田中正造は、地元・栃木へと戻ってきます。

そして栃木県会議員となり、県政に励むものの、県令・三島通庸(みちつね)と激しく対立。

加波山事件(※)が起こると、その計画に関係していたとでっち上げられ、再び投獄されてしまいます。

※加波山事件とは、栃木・福島の自由党員による三島通庸の暗殺未遂事件(1884年)のことです。

ですが三島通庸が栃木県令を解任されると、釈放されています。

三島通庸は田中に刺客を送り込んだとも言われていますから、二人の間の確執はすさまじかったのでしょう……。

あくびしたから投獄

足尾銅山鉱毒問題を機に発生した川俣事件。

上京する途中の被害農民たちを、官憲が弾圧したという出来事でした。

この事件の公判を傍聴していたという田中は、官吏の前で『あくび』をします。

たかが『あくび』、されど『あくび』です。

すると態度が悪いとして官吏侮辱罪に問われ、最終的に41日間の禁固刑となりました。

もう、むちゃくちゃですね。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。田中正造についていかがでしたでしょうか。

田中正造とは?

① 正義感の強く、領主・県令・政府などさまざまな相手と闘った

② その正義感が裏目に出て、度々投獄される羽目になってしまった

③ 財産は政治のために使われ、亡くなったときにはほぼゼロだった

こちらのサイトでは他にも、明治時代を生きた人物についてわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね!

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

sixteen − 4 =