武田耕雲斎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

幕末期、第9代水戸藩主・徳川斉昭に腹心として仕え、藩政を担った

武田耕雲斎たけだこううんさい

2021年の大河ドラマ『青天を衝け』では、津田寛治さんが役を務めます。

聞き慣れない名前のため、どんな人なの?

渋沢栄一となんか関係あるの?

と気になっている人もいますよね。

案の定、耕雲斎が行った攘夷活動は、栄一にもしっかり影響を残しています。

今回は武田耕雲斎の生涯から、その人物像に迫りましょう!

 

武田耕雲斎はどんな人?

プロフィール
武田耕雲斎

武田耕雲斎像(敦賀市)

  • 出身地:常陸国ひたちのくに水戸藩(現・茨城県水戸市)
  • 生年月日:1803年
  • 死亡年月日:1865年3月1日(享年63歳)
  • 第9代水戸藩主・徳川斉昭を支えた水戸藩執政。攘夷派集団・天狗党の首領を務め、上洛の途上で捕縛、斬首される。

 

武田耕雲斎 年表

年表

西暦(年齢)

1803年(1歳)水戸藩士・跡部政続あとべまさつぐの長男として常陸国水戸藩(現・茨城県水戸市)に生まれる。

1817年(15歳)宗家の跡部正房あとべまさふさの養子となり、家督を相続。武田氏に改姓。

1840年(38歳)第9代藩主・徳川斉昭の引き立てにより、水戸藩・参政となる。

1844年(42歳)徳川斉昭の失脚に伴い、連座で謹慎処分となる。

1849年(47歳)斉昭の復帰に伴い、再び藩政に携わる。

1856年(54歳)水戸藩・執政に任じられる。

1864年(62歳)藤田小四郎の熱望により、天狗党の首領となる。

1865年(63歳) 都へ向け中山道を進軍中、敦賀で幕府軍によって捕えられ、斬首刑に処される。

 

「水戸の三田」と呼ばれた武田耕雲斎

1803年、武田耕雲斎は常陸国水戸藩にて、水戸藩士・跡部正続あとべまさつぐの長男として生まれます。

その後、跡部家宗家にあたる跡部正房あとべまさふさの養子になり、15歳で家督を相続。

同時に姓を武田と改めました。

耕雲斎の祖先には、戦国武将・武田信玄の重臣であった跡部勝資あとべかつすけがいます。

この勝資が評判の悪い家臣であったため、耕雲斎は跡部姓を名乗ることを嫌ったのだとか。

信玄の末裔を名乗ったほうが箔がつくと考えたわけです。

1840年から耕雲斎は第9代水戸藩主・徳川斉昭の腹心となり、藩政を支えていきます。

斉昭の2人の重臣と合わせ、以下の3人で

東湖ふじたとうこ

中太夫とだちゅうだゆう

・武耕雲斎

「水戸の三田」と呼ばれるようになります。

こう見ると耕雲斎が武田姓を名乗ったことにも、不思議な因縁を感じますね。

徳川斉昭は藩主のなかでも過激な尊王攘夷そんのうじょうい派。

(※尊王攘夷…天皇の名のもと、外国人を追い払おうという考え)

1844年には行き過ぎた藩政改革を咎められ、謹慎処分に処されることとなります。

このとき、耕雲斎も斉昭を庇ったため、連座で謹慎に問われました。

 

尊王攘夷活動と徳川斉昭の死

徳川斉昭の謹慎が解除されると、耕雲斎も腹心として再び藩政に携わるようになります。

そして1858年になると、日米修好通商条約の調印を巡り、幕府にて開国派と攘夷派が対立することに。

このとき斉昭は、

・条約締結の勅許を得ようとする老中を妨害する

・次期将軍に一橋慶喜を掲げ、幕政を攘夷派に傾けようとする

などの攘夷活動を行っており、耕雲斎もこれを手伝いました。

しかし結局、新しく大老に就任した井伊直弼いいなおすけにより、条約は締結されてしまいます。

これに猛抗議した斉昭は永蟄居えいちっきょを命じられ、1860年、その最中で亡くなってしまうのです。

(※永蟄居…終生に渡る謹慎)

斉昭が没すると明確な方針を失った水戸藩は、攘夷派と保守派で真っ二つに割れることに。

耕雲斎はこの混乱の収束に奔走するも、どうにもならず、次第に藩での権力を失っていくこととなります。

そしてなにより、武田耕雲斎を語るのに欠かせないのが、このあと横浜鎖港問題を巡って幕府に反旗を翻し、立ち上がった天狗党の存在です。

 

横浜鎖港を巡る混乱

1863年、孝明天皇は幕府に対し攘夷勅命を出します。

具体的には、条約締結に伴い開港していた横浜港を鎖港するよう命じるのですが、諸外国はこれに反発し、衝突を嫌った幕府は鎖港を決行できずにいました。

これに対し、即時鎖港を要求するために動いたのが、藤田小四郎(藤田東湖の四男)率いる天狗党です。

天狗党というのは、もともとは耕雲斎や藤田東湖など、斉昭の腹心として成り上がった派閥に付けられた異名。

斉昭は壮絶な後継者争いを経て藩主となった人で、藩には反対勢力も少なからずいました。

そのため「天狗になりやがって」という意味で、腹心たちが天狗党と呼ばれるようになったのです。

つまり天狗党の名は水戸藩の攘夷派を表すシンボル。

このころには、その流れを汲んだ小四郎らがこれを名乗るようになっていたのです。

天狗党は鎖港問題を巡り、兵を集めるため各地で演説に奔走。

小四郎は当時江戸へ出てきていた渋沢栄一とも何度となく接触しています。

この時期に栄一が外国人居留地焼き討ちを計画したのも(未遂)、彼らの影響でした。

そして、このあと1000人規模となった天狗党を首領として引っ張ることになるのが、武田耕雲斎なのです。

天狗党の挙兵

藤田小四郎にとって、父・東湖とともに「水戸の三田」と呼ばれた耕雲斎は、天狗党の首領としてこの上ない人物でした。

首領を依頼された当初、耕雲斎は

「事を急ぎすぎている」

と考え、これを渋っていましたが、結局は小四郎の熱意に負け引き受けることに。

1864年11月、耕雲斎のもと兵を挙げた天狗党は、水戸藩から中山道を通り、京都を目指して進軍します。

目的は、禁裏御守衛総督きんりしゅごそうとくとして、京都を守護する立場になっていた一橋慶喜の擁立

そして慶喜を通じ、朝廷へ攘夷の意志を訴えることでした。

慶喜は幕臣のなかで、鎖港を渋る重役に唯一異を唱えていたため、天狗党は彼を旗頭に構えようとしたわけですね。

しかし、幕府の追討軍により、天狗党の兵は次々に脱落。

耕雲斎も敦賀に差し掛かったところでついに諦め、降伏にいたります。

翌年3月、耕雲斎は天狗党幹部23名とともに斬首の刑に処されることに。

塩漬けにされた首は水戸城に送られ、3日間城下を引き回されました。

実のところ、耕雲斎は天狗党の首領を引き受けた時点で、すでに死を覚悟していたという話です。

挙兵が無謀だとはわかりつつも、攘夷にいきり立つ党員たちを見殺しにはできなかったのですね。

 

きょうのまとめ

徳川斉昭の腹心として成り上がった武田耕雲斎は、その死後、藩にて力を失うことに。

しかし斉昭の思想を受け継いだ天狗党を率い、攘夷を訴え続けようとしました。

死を覚悟していた彼には、水戸藩の混乱を抑えきれなかった責任を取る意志があったのかもしれません。

最後に今回のまとめです。

① 武田耕雲斎の本名は跡部。先祖が仕えた武田信玄にあやかり武田姓を名乗る。のちに徳川斉昭の腹心となると、藤田東湖らと合わせ「水戸の三田」と呼ばれることに。

② 徳川斉昭が没すると、水戸藩内は攘夷派と保守派で大きく割れることに。その混乱のなか、耕雲斎も力を失っていく。

③ 藤田小四郎の熱望により、攘夷派集団・天狗党の首領となる。しかし上洛の最中、幕府追討軍に捕らえられ斬首される。

④ 天狗党の活動は渋沢栄一にも影響を与え、外国人居留地焼き討ちの計画(未遂)に動かした。

渋沢栄一と耕雲斎は、直接関りはありませんが、意外なところでつながっているものですね。

 
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