渋沢栄一とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

ドラッカーも著書の中で絶賛したという

渋沢栄一しぶさわえいいち

名前を聞いたことはあっても、詳しくはご存じない方も多いはず。

渋沢栄一とはどんな人物だったのでしょうか。

今回は渋沢栄一の生涯とエピソードについて、

簡単にご紹介していきます。

 

渋沢栄一はどんな人?

プロフィール
渋沢栄一

出典:Wikipedia

  • 出身地:武蔵国血洗島(現在の埼玉県深谷市血洗島)
  • 生年月日:1840年3月16日
  • 死亡年月日:1931年11月11日(享年92歳)
  • 幕臣・明治政府の官僚を経て実業家に転身。生涯で500余りの会社を設立した。

 

渋沢栄一 年表

年表

西暦(年齢)

1840年(1歳)武蔵国の豪農の長男として生まれる(幼名、栄二郎)。

1863年(24歳)倒幕計画を中止し、京都へ。

1864年(25歳)一橋慶喜に仕える。

1867年(28歳)パリ万博使節団としてフランスへ渡る。

1868年(29歳)帰国する。

1869年(30歳)静岡に商法会所を設立する。明治新政府に仕える。

1873年(34歳)大蔵省を辞め実業界へ。第一国立銀行を開業する。

1875年(36歳)第一国立銀行の頭取となる。商法講習所を創立する。

1876年(37歳)東京府養育院事務長となる。

1885年(46歳)東京養育院院長となる。

1901年(62歳)日本女子大学校を開校する。

1916年(77歳)実業界を引退する。

1931年(92歳)永眠。

 

豪農から幕臣・明治新政府の官僚を経て実業界へ

渋沢栄一の生涯は、転向の連続でした。

渋沢は、武蔵国血洗島ちあらいじまの豪農の長男として生まれました。

若い頃は江戸で尊王攘夷派の志士たちと親交を持ち、倒幕運動を企てたこともあります。

しかし一橋家の用人のすすめで、一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕えることになったのです。

フランスで西洋の産業に触れる

やがて徳川慶喜が江戸幕府の第15代将軍になると、渋沢は幕臣になりました。

幕末にはパリ万博使節団として慶喜の弟・昭武あきたけに従い、フランスに渡っています。

現地では、西洋の近代的な産業や諸制度などを見聞。

明治維新後に帰国した渋沢栄一は、徳川家とともに静岡へと移ることになります。

 

静岡では商法会所(銀行と商社を兼ねたような組織)を作っています。

商法会所は日本で初めての株式会社といわれています。

そして、これが新政府の目に留まったのです。

渋沢栄一は大隈重信に説得され、明治新政府に出仕することになりました。

数々の有名企業の設立に関わる

新政府では財政制度や貨幣制度の導入など、新しい国をつくるために力を尽くします。

しかし軍の予算削減が認められなかったことががきっかけで、渋沢は官僚を辞めます。

そして実業家へと転身し、500もの会社の設立関わります。

 

試しに、渋沢栄一が関わった会社をいくつか挙げてみましょう。

・第一国立銀行(現在のみずほ銀行)

・抄紙会社(現在の王子製紙)

・大阪紡績(現在の東洋紡績)

・東京瓦斯(現在の東京ガス)

・東京海上保険会社(現在の東京海上日動)

知っている会社ばかりではないでしょうか。

ちなみにbankを銀行と訳したのは、渋沢栄一です。

 

さらに会社だけでなく、東京株式取引所・東京手形交換所などの設立にも関わっています。

このように、渋沢栄一が日本の経済界に与えた影響は非常に大きいことがわかりますね。

そのため渋沢栄一は、「日本資本主義の父」とも呼ばれています。

教育・社会事業にも尽力

渋沢が名を残したのは、何も実業界だけではありません。

教育界にもその名を刻んでいます。

 

例えば渋沢は、商法講習所(現在の一橋大学)の設立にも携わっています。

商法講習所は実業界で活躍できる人材を養成するためにつくられた、日本で初めての教育機関です。

また日本女子大学校(現在の日本女子大学)の設立を支援し、校長も務めています。

当時としては珍しい、女子教育を推し進めた一人でもありました。

 

さらに貧しい人や孤児などを保護する養育院を運営するなど、社会事業にも力を尽くしました。

渋沢栄一が生涯で携わった教育・社会事業の数は、600にも及ぶそうです。

さらに渋沢は国際親善にも取り組むなど、「実業家」という肩書では足りないほどに世の中のために働いたのです。

 

そんな渋沢栄一は大腸狭窄きょうさく症という病気で、この世を去りました。

享年92歳(数え年)でした。

 

渋沢栄一にまつわるエピソード

ここからは、渋沢栄一にまつわるエピソードをいくつか紹介していきます。

高崎城乗っ取り計画

若かりし頃の渋沢栄一が、尊王攘夷思想に染まっていたことは上記でご紹介しました。

そして実際に渋沢は、倒幕のためにある計画を企てていたのです。

それは高崎城(現在の群馬県高崎市にある城)を乗っ取って武器を調達し、横浜の異人館を襲撃しようというものでした。

この計画は結局、尊王攘夷派からも説得されて中止。

ですが、このまま故郷に残るのは危険だろうということで、京都へ逃れたというわけです。

数多くの社会事業にも携わった渋沢栄一でしたが、若い頃はなかなか激しい性格だったのですね。

大谷翔平も読んだ!?『論語と算盤』

「資本主義」と聞いて、どんなイメージを持ちますか?

人によっては「儲かればそれでいい」だとか「貧富の差が拡大する」というような、

あまり良いイメージはないのかもしれません。

 

それでは日本資本主義の父・渋沢栄一は、どのような思想の持ち主だったのでしょうか。

渋沢は利益を追求すること自体は当然のことであると考えていました。

同時に、公益のためになるように仕事をしなければならないとしました。

 

この自分と他者の利益を調和させようとする考えを「道徳経済合一説」といいます。

渋沢栄一の思想を詳しく知りたい方は、渋沢の講演録『論語と算盤』を読むことをおすすめします。

エンゼルス(2018年6月時点)の大谷翔平選手も、日本ハムファイターズ時代、

『論語と算盤』を読むということを目標設定シートに書いていたそうですよ。

ノーベル平和賞の候補に二度も選ばれていた

渋沢栄一は1926年、1927年と、二度もノーベル平和賞の候補になっています。

一度目は加藤高明首相ら、二度目は若槻礼次郎首相ら連名による推薦でした。

一度目と二度目では推薦理由は少し違うものの、

共通していたのはアメリカと日本との関係を良くしようと渋沢が活動していたことでした。

当時、もし渋沢栄一がノーベル平和賞を受賞していたら、その後の歴史が変わっていたかもしれませんね。

 

きょうのまとめ

最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。

今回は日本資本主義の父こと、渋沢栄一の生涯などについて簡単にご紹介しました。

渋沢栄一とは?

① 倒幕運動から一転、一橋家→江戸幕府→明治新政府に仕えた

② 官僚を辞めると、約500の会社設立・約600の社会事業などに尽力した

③ 私利と公益の調和を図る「道徳経済合一説」を説いた

④ 日米の平和のためにも尽くし、二度もノーベル平和賞の候補となった

こちらのサイトでは、他にも幕末・明治時代に活躍した人物についてわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね!

 
目次に戻る ▶▶

 

 

その他の人物はこちら

関連記事 >>>> 「【明治時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

20 − 3 =