高杉晋作は、勤皇の志士だけど・・・?
名前は知っていても、彼がどんな人物なのかよく知らない人も多いかもしれませんね。
幕末は藩や人々や考え方が入り乱れていて混乱しがちな時代です。
そんな混迷の時代を太く短く生きた男、高杉晋作について見てみましょう。
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高杉晋作はどんな人?
- 出身地:長門国 萩(現在の山口県萩市)
- 生年月日:1839年9月27日
- 死亡年月日:1867年5月17日
- 幕末の長州を背負った奇才の志士
高杉晋作年表
西暦(年齢)
1839年(1歳)9月27日 長門国にて長州藩士高杉小忠太春樹の嫡子として誕生。
1857年(19歳)吉田松陰主宰の松下村塾に入門。
1859年(21歳)吉田松陰の刑死を知る。
1860年(22歳)山口町奉行井上平右衛門の次女雅子と結婚。
1862年(24歳)幕府使節随行員として上海へ渡航。品川御殿山の英国公使館焼き討ち。
1863年(25歳)奇兵隊を結成し総督に任命されるがのち免じられる。八月十八日の政変で長州藩は京都を追放される。禁門の変。
1864年(26歳)四カ国との講和談判をまとめる。功山寺挙兵し俗論派政権を追放。
1866年(28歳)薩長同盟締結。四境戦争(第二次長州征伐)で海軍総督として勝利。血痰を吐く。
1867年(29歳)5月17日 肺結核のため死去。
長州藩の救世主として尽力するも病のために力尽きる
長州藩士高杉晋作は吉田松陰が主宰していた松下村塾に学び、大きな影響を受けました。
尊皇攘夷に傾倒し、1862年イギリス公使館焼き討ちを実行するなど
過激な行動で長州藩に手を焼かせます。
しかし、長州藩が外国船砲撃などで欧米諸国、幕府、朝廷の全てを敵に回してしまった時、
それを救ったのは高杉晋作でした。
身分に関わらず参加することのできる最強部隊、奇兵隊を結成。
また長州藩代表として英・仏・蘭・米の四カ国連合軍との和議交渉をまとめました。
功山寺にて挙兵し、揺れる長州藩内の意見を倒幕へと統一。
そして薩長同盟を経て、四境戦争(第二次長州征伐)では高杉が海軍総督を務め幕府に勝利しました。
ところが、その時高杉はすでに肺結核に冒されており、療養の甲斐無く1867年に病没。
29歳でした。
高杉晋作にまつわるエピソード
吉田松陰の教えを守って
高杉が松下村塾学んだ期間は約1年。
短いながら、吉田松陰との強い結びつきは師弟であり同志のようでした。
松陰が安政の大獄で処刑された後も、彼は松陰の教えを実践していきます。
例えば奇兵隊。
草莽崛起という
「身分に囚われず、皆がより良い世のために立ち上がるべき」
だという考えに基づいて作られた志願制の部隊です。
奇兵隊は吉田松陰の考えを形にしたものだったのです。
将軍をも畏れぬ剛胆な性格
1863年将軍家茂が上洛し、孝明天皇の賀茂神社行幸に従って多くの見物人の中を進む時
「よっ!征夷大将軍!」
と叫んだ者がいました。
この失礼千万な輩が高杉晋作。
将軍とはいえ行幸の列を乱すこともできず、幸い高杉はお咎めなしでした。
当時同行していた山縣有朋は後年、
「声をかけていたが、何と言ったのかはわからなかった」と語っています。
ですから、高杉が将軍に何かを叫んだのは事実のようです。
剛胆な性格の高杉らしいエピソードですね。
功山寺決起の決意
1864年の長州藩は禁門の変、四カ国連合艦隊の襲撃でぼろぼろの状態でした。
それまで藩を牽引してきた改革派に代って、
幕府に従って藩を守ろうとする俗論派が改革派の人物を次々と粛正。
奇兵隊やその他諸隊にも解散を迫ります。
そこで、高杉は藩政府を倒すことで長州を救おうと決意。
諸隊に挙兵の必要を説得して回ります。
しかし、同調したのは伊藤俊輔(博文)らたった80名だけ。
それでも雪の降る深夜功山寺に結集し、三条実美ら五卿の前で高杉は
と叫んで皆と出発しました。
彼らは次々に藩の要所を襲って俗論派政府に宣戦布告。
その鮮やかな手並みに、当初は参加しなかった諸隊が次々と高杉の元に集まります。
そしてついに高杉たちは俗論派を打ち破り、
長州藩は改革派中心に維新への道を進んでいきました。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。
高杉晋作とは、
② 吉田松陰の教えを形にした才ある男
③ 権威に負けない豪放磊落な性格の持ち主
④ 倒幕へと長州藩をまとめ上げた行動力あるヒーロー
その他にも高杉晋作にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞご覧ください。
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