幕末維新の士
高杉晋作の生き方に共感・感動すると、
彼ゆかりの地と共にお墓も尋ねてみたいと思いませんか?
そして、高杉晋作のお墓がどこにあるかご存じですか?
実は高杉晋作の墓と呼ばれるものは4カ所ほどあるのです。
下関市にある東行庵、萩市の団子岩付近、下関市桜山神社の招魂場、そして京都の霊山護国神社。
下関で亡くなったった高杉ですが、京都にもお墓があるんですね。
では、高杉晋作墓標巡りに出発しましょう!
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東行庵:本人の遺言によって遺体が葬られた地
死んでも魂は奇兵隊と共に
高杉晋作の遺骸は1867年4月16日に吉田村清水山に土葬されました。
神式の葬儀の後に立てられたお墓には「東行墓」と刻まれています。
高杉本人の遺言によってこの吉田の地が選ばれたということです。
奇兵隊の陣屋の近くだったからというのがその理由――。
東行庵は功山寺の末寺です。
山県有朋は山麓に建てた無鄰庵を出家した高杉の愛妾おうのに贈りました。
そこを既に出家して梅処尼と称していたおうのは東行庵と改め、この地で高杉の菩提を弔ったのです。
東行とは高杉の号でした。
伊藤博文による顕彰碑
墓の近くには高杉晋作顕彰碑があります。
周囲の者はただただ驚き呆然とするばかりで敢えて正視する者すらいない。
これこそ我らが東行高杉君ではないか
この碑文は伊藤博文によるものです。
高杉と伊藤は功山寺決起でも共に立ち上がった同志でした。
この顕彰碑を掲げた1ヶ月後に、伊藤博文は暗殺されることになります。
敷地内には高杉晋作の妻雅子やおうのの墓、東行記念館も併設されています。
所在地:山口県下関市大字吉田町1184
萩市内:遺髪とへその緒が埋められた地
1867年4月29日は遺族による高杉晋作の葬儀の日。
仏式の葬儀が執り行われ、
「東行暢夫之墓」と刻まれた墓石の下には遺髪とへその緒が埋められました。
破天荒な人生を送った高杉晋作。
その活躍の影で、生まれた時から家族によってそのへその緒が
きちんと保管されてあったのですね。
その親の愛情とそれを墓に埋める時の心情を察すると切ないものがこみ上げてきます。
高杉の墓は吉田松陰やその一族、また松下村塾の門下生と共にあります。
所在地:山口県萩市椿東243-15付近
桜山神社:高杉の発案で作られた招魂場
高杉晋作の発案により、奇兵隊を弔うためにできた日本初の招魂場です。
その後、奇兵隊だけではなく長州藩のために命を落とした多くの者たちを慰霊するための場となりました。
吉田松陰、久坂玄瑞と並んで多くの長州藩士たちと一緒に高杉晋作の墓標もそこにあります。
無名の者も身分の上下に関係なく同じ高さの墓標が作られているのが特徴的な
いかにも奇兵隊が活躍した長州藩の招魂場です。
全部で396柱の志士が祀られています。
所在地:山口県下関市上新地2丁目6-22
京都霊山護国神社:多くの志士の魂が一つになるところ
1868年に明治天皇の詔により創建された京都の霊山護国神社。
明治維新実現のために倒れた多くの志士たちの霊を慰めることを目的としたものです。
ここに高杉晋作の墓標もあります。
彼の魂と共に池田屋事件や禁門の変、天誅組の挙兵など幕末から維新にかけての
動乱の時期に命を落とした1356名の人々が祀られています。
明治以降、日清・日露そして太平洋戦争の戦死者も祀られることとなり、
今ではその祭神の数も約7万3000柱――。
高杉のものを含めその碑の多くは招魂塔で遺骨などは納められていません。
ただし、坂本龍馬、中岡慎太郎、木戸孝允、久坂玄瑞など
京都でなくなった志士たちは、ここに真骨が納められています。
所在地:京都市東山区清閑寺霊山町1
きょうのまとめ
いかがでしたでしょうか?
短い生涯でしたが高杉晋作の生きざまは、今も多くの人々の心を虜にし愛されています。
そして彼を思う多くの人々によって下関や萩、京都にも彼を偲ぶ墓標があるのです。
機会があればこれらを訪れ、高杉晋作の生涯に思いを馳せてみたいものですね。
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