幕末期、長崎にて洋式砲術を学び、幕府の砲術・兵術の近代化を促した
高島秋帆。
2021年の大河ドラマ『青天を衝け』でも、一話から早速登場していました。
演じるのは玉木宏さん。
罪人として捕らえられているものの悪い人には見えない、そんな謎の素性から、気になっている人も多いはずですよね。
実は明治以降にも大きな影響を残したすごい砲術家なんです!
高島秋帆とはいったいどんな人なのか、その生涯に迫りましょう。
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高島秋帆はどんな人?
- 出身地:長崎
- 生年月日:1798年9月24日
- 死亡年月日:1866年2月28日(享年69歳)
- 日本初の洋式砲術家。海外列強押し寄せる幕末の時勢に際して幕府に出仕し、砲術・兵術の近代化を促した。
高島秋帆 年表
西暦(年齢)
1798年(1歳)長崎町年寄・高島四郎兵衛の三男として生まれる。
1814年(16歳)父の跡を継ぎ、長崎町年寄、出島台場を任される。
1834年(36歳)出島のオランダ人から学んだ洋式砲術を基礎に、高島流砲術を完成させる。
1841年(43歳)砲術の近代化を訴える『天保上書』を幕府に提出。日本初となる洋式砲術・兵術の公開演習を行い、砲術の専門家として重宝されるようになる。
1842年(44歳)長崎会所の経理処理が問題となり、武蔵国岡部藩(現・埼玉県深谷市)にて投獄される。
1853年(55歳)ペリー来航などの情勢に伴って赦免。幕府に開国の必要性を訴える。以後、講武所にて砲術・兵術の師範を務めた。
1864年(66歳)『歩操新式』などの指南書を編纂する。
1866年(68歳)死没。
高島秋帆の生涯
それでは、高島秋帆の生涯についてみていきましょう。
江戸時代の外国窓口・長崎にて生まれ育つ
1798年、高島秋帆は長崎町年寄・高島四郎兵衛の三男として生まれます。
町年寄は町政のトップを務める官職で、四郎兵衛はオランダとの貿易を司る長崎会所の頭取も任されていました。
1808年には、オランダ船を装ったイギリス船が出島に侵入する「フェートン号事件」が勃発。
オランダ商館のオランダ人が拉致される事態にまで至りました。
これに伴って海防意識が高まると四郎兵衛は出島台場も任されるようになり、和製砲術を学びます。
そして1814年、16歳になった秋帆がその跡を継ぎ、町年寄と出島台場を受けもつこととなるのです。
日本初の洋式砲術家となる
出島台場を任される身となった秋帆は、威力の低い和製砲術では外国船に太刀打ちできないと考え、出島のオランダ人から洋式砲術を学ぶようになります。
町年寄の特権で銃器や兵術書などもオランダから取り寄せ、研究に励んでいたという話。
これを基礎にして1834年に完成したのが、高島流砲術です。
秋帆はオランダ人の師匠に敬意を表し、訓練ではオランダ語による号令を行っていました。
その名残として、「ランドセル(兵士が背負うカバン)」「ハトロン紙(火薬を包む紙)」など、オランダ由来の軍事用語が後世にも残されています。
そして1841年、アヘン戦争でイギリスが清国を圧倒した時勢から、秋帆は幕府に充て『天保上書』という提案書を提出しました。
西洋に比べ、日本の砲術が数百年遅れていることを訴え、海防を真剣に考えていかねばならないと訴えたのです。
これが老中・水野忠邦の目に留まり、日本で初めて西洋砲術の演習が行われることになりました。
このとき演習が行われた武蔵国徳丸原は、現在の板橋区高島平。
そう、秋帆が演習を行ったことにちなんで、のちにこの地名が付けられたのです。
以後、秋帆は砲術師範として幕府に重宝されることとなり、伊豆韮山代官・江川英龍などの幕臣を中心に高島流砲術を広めていきます。
冤罪による投獄
海外列強迫る幕末におき、秋帆の教えは多数の門人を集め、支持されました。
しかし、なかにはその台頭を快く思わない者もおり、あるとき秋帆は長崎会所の経理のずさんさを問われ、投獄されてしまいます。
首謀者は水野忠邦の配下にあった幕臣・鳥井耀三でした。
幕臣でも特に熱心な儒学者だった鳥井は、蘭学に精通し西洋化を主張する秋帆が気に入らなかったのです。
おまけに、長崎町年寄としてオランダとの貿易を司る秋帆は、10万石の大名に匹敵する財力をもっていました。
これを聞き捨てならないと妬んだ鳥井が、
「密貿易をしているに違いない」
と、秋帆に濡れ衣を着せたのです。
しかし、このあと老中・阿部正弘の調査によって悪事を暴かれた鳥井は失脚。
秋帆は島流しのところを、武蔵国岡部藩への投獄に減刑されます。
岡部藩にいたころ、秋帆は領民に客人として扱われ、密かに砲術を指南していたという話。
現在でも埼玉県深谷市には、秋帆が過ごした地を示す石碑が残されています。
岡部藩は渋沢栄一の故郷でもあり、大河ドラマでは投獄された秋帆と栄一のやり取りが描かれていましたね。
秋帆が牢屋のなかでオランダ語を練習していたのもまた印象的でした。
藩において、攘夷活動に特に熱心だった栄一のこと、実際に砲術の指南を受けるような場面もあったのかもしれません。
ペリー来航の時勢に伴い赦免、講武所の師範となる
1853年になると、ペリー来航によって日本の外国に対する危機感がいよいよ本格的になってきます。
この時勢にならい、江川英龍らが熱心に訴えたところ、秋帆は晴れて赦免となりました。
老中首座・阿部正弘はこの時期に「安政の改革」を行っています。
政策の一環で、能力のある者は身分を問わず幕臣に列せられているため、これが秋帆の赦免を後押ししたともいえますね。
そして赦免と同時に秋帆は『嘉永上書』という意見書を幕府に提出しています。
その内容は日本の開国、海外列強との通商を促すもの。
砲術を推進しているところから、秋帆は一見、外国に敵対しようとしているように見えますが、実はそうではありません。
投獄の最中、日本は外国と通商を深めて国力を育てるべきだと考えるようになっていたのです。
海防を第一に考えていた秋帆だからこそ、欧米諸国の強大さも人一倍理解していたのでしょう。
以後、幕府の訓練所「講武所」にて、砲術・兵術の師範を務めつつ、晩年までに指南書もまとめていきました。
長崎町年寄のころのような財を求めることはなく、終生、訓練指導だけに熱意を傾けていったといいます。
きょうのまとめ
高島秋帆は、外国船押し寄せる幕末の危機に際し、砲術の近代化を担った人物。
長崎という外国との接点が多い地におき、貿易や海防を司る家系に生まれたことが、彼を史上に残る砲術家へと育てました。
その影響は明治時代、アジア隋一の強さを誇った日本軍にも着実に受け継がれていくこととなります。
最後に今回のまとめをしておきましょう。
① 高島秋帆は長崎町年寄の家系に生まれ、長崎会所や出島台場を任された。貿易を司った関係から、10万石の大名に匹敵する財力をもっていた。
② 和製砲術では外国船に太刀打ちできないと考え、出島のオランダ人に洋式砲術を学び、高島流砲術を完成させる。
③ 砲術家の近代化を訴え幕府に重宝されるが、蘭学を好まない幕臣の妬みにより、冤罪で投獄される。
④ ペリー来航により海防強化の必要性が叫ばれ、赦免となる。晩年は講武所にて兵術・砲術の指南に尽力した。
同じように外国との貿易によって国力を高めた薩摩・長州藩が、このあと時代の覇権を握ったこととも通じるものがありますね。
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