川路聖謨とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

幕末期、ロシアとの対外交渉などを巡り、重責を任された幕臣

川路聖謨かわじとしあきら

2021年の大河ドラマ『青天を衝け』では、平田満さんがその役を演じます。

これまであまり注目されてこなかった人とあって、どんな人物か気になっている人も多いのでは?

実はこの聖謨という人物は、ものすごい努力をもって出世しており、筆者としても「ぜひ見習いたいな」と感じさせられる資質をもっています。

もちろん、渋沢栄一とも関係がありますよ。

今回はそんな川路聖謨の生涯に迫りましょう。

 

川路聖謨はどんな人?

プロフィール
川路聖謨

川路聖謨
出典:Wikipedia

  • 出身地:豊後国日田ぶんごのくにひた(現・大分県日田市)
  • 生年月日:1801年6月6日
  • 死亡年月日:1868年4月7日(享年68歳)
  • 幕末期、海外列強との交渉を任された外国奉行。幕府の終焉とともに非業の死を遂げた。

 

川路聖謨 年表

年表

西暦(年齢)

1801年(1歳)豊後国日田ぶんごのくにひた(現・大分県日田市)にて、代官所役人・内藤吉兵衛の長男として生まれる。

1812年(12歳)江戸にて御家人・川路三左衛門の養子となる。

1818年(18歳)下級幕吏として勘定奉行所に出仕。出世を経て旗本となる。

1827年(27歳)寺社奉行吟味物調役ぎんみものしらべやくに就任。

1835年(35歳)出石藩の権力抗争に伴う事件で取調べを行う。その功績から勘定吟味役に昇進。

1840年(40歳)佐渡奉行となる。

1841~1845年(41~45歳)小普請奉行、普請奉行(土木関係)を務める。

1846年(46歳)奈良奉行に異動。

1849年(49歳)評伝『神武御陵考じんむごりょうこう』を執筆。

1851年(51歳)大坂東町奉行に就任。

1852年(52歳)勘定奉行に就任。500石の知行取となる。

1853年(53歳)「安政の改革」に伴い、海防防禦御用掛かいぼうぼうぎょごようがけとなる。

1854年(54歳)外国奉行としてロシア使節・プチャーチンとの交渉を担当。日露和親条約を締結する。

1858年(58歳)老中・堀田正睦ほったまさよしに伴い、日米修好通商条約の勅許を得るべく上洛するも失敗。「安政の大獄」にて、西の丸留守居役に左遷される。翌年、隠居処分に。

1863年(63歳)外国奉行に復帰するも、4か月で退任。

1868年(68歳)幕府の終焉とともに自害する。

 

貧乏役人から旗本へ

1801年、川路聖謨は豊後国日田ぶんごのくにひた(現・大分県日田市)にて、代官所役人・内藤吉兵衛の長男として生まれます。

下級武士のため、幼少は貧困に苦しんだという話。

しかし父・吉兵衛には聖謨や、弟の清直を立派な武士にしてやりたいという夢があり、常に厳格な教育を行っていました。

息子を幕臣にするために奔走する父


1808年のこと、一家は父・吉兵衛に伴い、江戸へ移り住みました。

そして聖謨が12歳になるころ、吉兵衛は御家人株を購入し、聖謨を御家人・川路三左衛門の養子とします。

*御家人株

江戸中期以後,御家人となる権利。富裕な町人・農民が多額の持参金をもって困窮した御家人の養子となったり,家格を買ったりすることが盛行。

こうして買いとられた権利をいい,売却した者は「御家人くずれ」と呼ばれた。

同じく、弟の清直は御家人・井上新右衛門の養子に。

貧乏役人がどのようにして江戸までの旅費を工面したのか、御家人株を購入できるほどの資金をどうやって集めたのか。

詳細にはわかっていませんが、そこには吉兵衛の相当な苦労があったと考えられます。

こうして聖謨と清直は幕臣としての道を歩むことに。

晩年には、両親からの教育をふたりで振り返り、涙を流す場面もあったといいますよ。

聖謨の出世を支えた習慣

晴れて幕府直轄の御家人となった聖謨は、17歳のころに下級幕吏の試験を受けて合格。

翌年から勘定奉行所に出仕し、その年に旗本の地位を得るまでに出世します。

このように、幕臣となって以来、破竹の勢いで出世していった聖謨。

彼の生活態度を踏まえれば、それだけの評価を得たことにも納得がいきます。

午前2時に起床して読書や執筆に励み、夜が更けてくると表へ出て剣術修行を行う。

幕府の職務や食事の時間以外はすべて自己研鑽に充て、睡眠時間は一日2時間ほどだったといいます。

本人いわく「気を張っていたから、眠くはならなかった」とのこと。

これも幕臣の道を拓いてくれた父に報いるためでしょうか。

限界に挑むというのはこういうことをいうのだな、と感心させられます。
 

地方奉行として

聖謨は幕府にて

・佐渡奉行

・奈良奉行

・大坂東町奉行

と三度、地方奉行の職に任じられています。

この地方奉行時代の聖謨の働きが、領民から非常に評判の良いものでした。

佐渡奉行時代には、

「机に向かっているだけで領内の統治などできるものか」

と言い、自ら領民の暮らしを見て回る。

奈良奉行時代には東大寺、興福寺を中心にや楓の植林事業を行い、環境整備に尽力。

このほか博打を取り締まり、浮いた資金を貧民の救済に宛てたともいいます。

こういった諸政策を買われ、領民からは名奉行だと称えられていました。
 

外国奉行としての働き

1853年、海外列強来航の危機に際し、老中首座・阿部正弘が「安政の改革」を行いました。

この改革人事に伴い、聖謨は外国奉行として引き立てられることとなります。

ロシア使節・プチャーチンとの交渉

幕末の諸外国との交渉といえばペリーの一件が有名ですが、実はこれと同時期にロシアの艦隊も長崎に訪れていました。

その際、ロシア使節・プチャーチンとの交渉を担当したのが聖謨です。

聖謨は幕府の意向に従い、プチャーチンをのらりくらりと交わして条約締結を拒否

その受け答えが非常に巧みだったといい、プチャーチンは

「川路ほど知性とウィットに富んだ官僚はヨーロッパでもなかなかいない」

と評価しています。

交渉はロシアにとって不本意な結果となりましたが、聖謨の人柄から好印象を与えることができたのです。

しかし、一方でペリーとの交渉では幕府側が屈し、日米和親条約を結ぶことに。

「どの国とも条約は結ばない」

といってロシアをはねつけた聖謨は、これでは示しがつかないと考え、結局ロシアとも条約を結ぶことにします。

このとき、聖謨は嵐に伴って座礁したロシア艦隊の修理も買って出ました。

プチャーチンはこれに感動し、択捉えとろふ島を日本の領土と認めるなど、北方領土問題での譲歩を見せています。

条約締結に伴う朝廷との交渉

1858年、幕府は日米修好通商条約の締結を巡り、天皇の勅許を得る必要性に駆られました。

このとき、老中・堀田正睦ほったまさよしに伴い、川路聖謨も京都へ派遣されています。

聖謨は奈良奉行時代、神武御陵考じんむごりょうこうという、神武天皇の墳墓に関する評伝を執筆するなど、勤皇家の幕臣として知られていました。

そのため、朝廷と交渉するにはもってこいの人材と考えられたのです。

しかし、このときの交渉は攘夷じょうい派の妨害により頓挫。

(※攘夷…外国人を追い払う考え方)

結局は勅許を得ないまま、日米修好通商条約が締結されてしまうこととなります。
 

失脚と自害

日米修好通商条約の締結と同年、川路聖謨は大老・井伊直弼いいなおすけによる大弾圧「安政の大獄」に伴って隠居処分となります。

条約の締結と並行して勃発した、将軍の後継者争いで井伊と対立していたのです。

また先に述べたように、聖謨は朝廷から好感をもたれていたため、朝廷に賄賂を渡しているという邪推も飛び交っていました。

このような事情が重なり、井伊によって処断されてしまうのです。

以降、1863年に再び外国奉行として復帰していますが、このときはわずか4か月で自分から辞任しています。

なんでも、外国奉行とは名ばかりで、実情は使いっぱしりだったためだとか。

こうして迎えた1868年、聖謨は失意のなかで自害してしまいます。

時局は戊辰戦争を迎え、幕府の終焉を憂いての最期だったとのこと。

このころには半身不随の病状を抱えていたため刀が振るえず、ピストルによってその命を絶ちました。

この直前、弟の井上清直も亡くなるなど、不幸が重なったことも自殺の一因ではないかと思われます。
 

渋沢栄一との意外な関係

大河ドラマ『青天を衝け』で注目されることとなった川路聖謨。

その実、渋沢栄一とも意外な関係があります。

栄一と直接の関りをもっているのが、聖謨の孫にあたる川路寛堂かんどうです。

寛堂は幕府の命でヨーロッパへ留学しており、大政奉還が行われた際に、パリに居た栄一にこれを報告、帰国の相談をしました。

維新後は栄一の推薦で岩倉使節団にも随行。

留学経験のある寛堂を同行させれば、アメリカやヨーロッパでも、なにかと助けになるだろうと栄一は踏んだわけです。

このほか、栄一を徳川慶喜の家臣に誘った平岡円四郎を、慶喜の側近に推挙したのも川路聖謨だったり。

聖謨自身は栄一と接触していないにしても、物語の軸を担う役回りであることがわかりますね。
 

きょうのまとめ

外国奉行となり、幕末の危機に際して海外列強と渡り合った川路聖謨。

その出世の背景には、父の尽力や、本人の絶え間ない努力など、成るべくして成り上がったといえる事情がありました。

最期は非業の死を遂げてしまいましたが、幕府の運命に準じることは、本人も望むところだったのかもしれません。

最後に今回のまとめです。

① 川路聖謨は地方の下級武士の生まれだったが、父親の尽力によって幕臣になることができた。その期待に応えるため、毎日2時間睡眠で研鑽に励んだ。

② 外国奉行としてロシアとの交渉、日米修好通商条約に伴う勅許の交渉を任された。ロシア使節・プチャーチンからその人柄を評価される。

③ 将軍継嗣問題で井伊直弼と対立し、「安政の大獄」に伴い失脚。戊辰戦争の勃発を受け、自害によって生涯を閉じた。

④ 孫の川路寛堂は、ヨーロッパで渋沢栄一と相対している。また栄一を幕臣に取り立てた平岡円四郎を、徳川慶喜の側近に推挙したのも聖謨だった。

川路聖謨と渋沢栄一の関係は、近からず遠からずといった感じ。

しかし、聖謨を取り巻く人間関係が栄一に大きな影響を与えていることはたしかです。
 
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