平敦盛とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

栄華を極めた平家が1185年の壇ノ浦の戦いで滅びたことはよく知られています。

その過程においてさまざまな戦いが源氏と平家の間で繰り広げられました。

その戦の中で亡くなった、

平家の貴公子・平敦盛とはどんな人物だったのでしょう。

 

平敦盛はどんな人?

プロフィール
平敦盛

平敦盛
出典:Wikipedia

  • 出身地:未詳
  • 生年月日:1184年3月20日
  • 死亡年月日:1189年4月30日(享年31歳)
  • 平清盛の甥という平家の貴公子であり、笛の名手。一の谷の戦いで源氏の熊谷直実に討取られ、16歳という短い生涯を終えた

 

平敦盛 年表

年表

西暦(年齢)

1169年(1歳)平経盛の息子として誕生

1174年(6歳)若狭守に任じられる

1184年(16歳)一の谷の戦いに参加、討ち死にする

 

初陣で亡くなった敦盛

平敦盛の生涯は短く、彼に関する資料はそう多くは残されていません。

1184年、摂津国の福原・須磨で一の谷の合戦が繰り広げられました。

京を追い出された後に勢力を立て直し、瀬戸内海を制圧して中国、四国、九州において力を盛り返してきていた平家軍に対し、源範頼みなもとののりより、源義経らの源氏の軍勢が襲いかかったのです。

その戦いに平敦盛も平家軍として加わっていました。

平清盛の甥である平敦盛は、「無官大夫」と呼ばれていました。

栄華を極めた平家一門は高い地位を得ている者も多かったのですが、若かった彼はまだ無官だったのです。

平家一門の繁栄がさらに続いていったなら、敦盛も他の平家一門の人々のように高位に就いたことでしょう。

しかし、平家の棟梁であった平清盛が亡くなり、平家には逆風が吹き始めると、敦盛も平家の他のメンバーと行動を共にし、京の都を出ていました。

一の谷の戦いは、敦盛にとっては初陣でした。

源義経軍は容赦なく攻め寄せます。

慌てた平家は海上の味方の船へと逃れました。ところが、敦盛は忘れ物の笛を取りに戻っていたために逃げ遅れてしまいます。

そこを熊谷直実によって討取られ、短い生涯を終えることになりました。

自分の下に組み敷いた平家の武将が、我が息子と同じ年の頃の若武者だったことに気づいた直実は、彼を殺すべきか生かすべきかの葛藤に苦しみます。

しかし自分が彼を見逃しても、源氏の他の武将に殺されることが間違いない状況の中、泣く泣く敦盛を討取ります。

敦盛は最期まで自分の名を明かすことはありませんでした。

しかし、彼が身に付けていた「小枝の笛(青葉の笛)」により、若武者が平家の若い公卿、平敦盛であることがあとで判明しました。

この戦いでは、平敦盛の兄経正・経俊の二人も討死しています。

 

語り継ぐ悲劇の題材として

『平家物語』の敦盛最期の悲劇は、さまざまな舞台芸術の題材として用いられました。

若くして命を落とした敦盛だけではなく、彼を討取った熊谷直実の苦渋も描かれています。

背後に迫る味方の源氏武将たちの手前、自分の息子を彷彿とさせる敦盛を討取らなければならなかった熊谷直実の葛藤と苦しみが物語から伝わってきます。

このシーンは、能『敦盛』、幸若舞『敦盛』、文楽や歌舞伎『一谷嫩軍記いちのたにふたばぐんき』などにも描かれ、多くの人々に長く愛されてきました。

また、1906年に尋常小学唱歌として「青葉の笛」という歌も発表され、当時の日本人の心に深く刻み付けられました。

これがその歌詞です。

「一の谷の 軍(いくさ)破れ
討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか青葉の笛」

日本人は、このような悲劇に惹かれがちです。

 

敦盛と超有名戦国武将

戦国大名ファンには有名な話ですが、実は、平敦盛を題材にした幸若舞の『敦盛』を好んだ戦国武将がいました。

織田信長です。

その有名な一節が、

「人間五十年 下天の中をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか」

です。

信長は『敦盛』をよく舞ったと伝わっています。

この歌は、幸若舞『敦盛』において、熊谷直実が出家したときに詠んだ歌です。

信長が好んだ歌ということでさらに有名になりました。

 

平敦盛の墓所

敦盛の墓所としては主に以下の2箇所が挙げられます。

敦盛の胴塚

神戸の須磨には敦盛塚と呼ばれる、平敦盛の胴塚があります。

高さ約3.5mの大きな五輪塔が、一ノ谷の古戦場のそばにあるのです。

鎌倉後期の武将で鎌倉幕府第9代執権・北条貞時が平家一門を供養するために建立しました。

大正時代には、子供の病気快癒を願う信仰の対象でした。

お礼参りには敦盛愛用の「小枝の笛(青葉の笛)」になぞらえて、穴をあけた竹に白紙を巻き、水引きをかけたものを奉納したのだそうです。

<敦盛塚>
兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町5丁目4

敦盛の首塚

一方、敦盛の首は実検の後に須磨寺に葬られました。

敦盛の菩提を弔うために境内には首塚が建立されています。

敦盛に関連する宝物などを持つ当寺には、上記の胴塚と共に敦盛を慕う人々が今でも多く訪れています。

<敦盛卿首塚>
大本山須磨寺:兵庫県神戸市須磨区須磨寺町4丁目6-8

 

平敦盛の御落胤説

実は、平敦盛は平経盛の子ではなく、後白河法皇御落胤だという説もあります。

その根拠は『一谷嫩軍記』です。

それによれば、敦盛が後白河法皇の御落胤だということを知っていた直実は、敦盛の首を取ることができず、自分の息子小次郎の首を刎ねたとなっているのです。

となると、敦盛の出生の秘密の驚きだけではなく、熊谷直実にとっては悲劇の上に悲劇を重ねるような悲惨な話しとなってしまいますね。

 

多くの文人に愛された平敦盛

青葉の笛が保存されている須磨寺の境内には、名だたる歌人・俳人らの石碑が24もあります。

古来より名高い景勝地に立地する須磨寺は人気があったようです。

江戸時代には拝観料を払えば、あの小枝の笛(青葉の笛)を見ることもできました。

敦盛を慕った正岡子規、与謝蕪村、松尾芭蕉他多くの文人たちの碑が寺境内の各所に見られます。

敦盛をテーマにした句

松尾芭蕉の句碑には以下の句が刻まれています。

「須磨寺やふかぬ笛きく木下闇」

(寺の木下闇にとどまっていると、吹いてもいないのに笛の音が聞こえてくるような気がする)

芭蕉が敦盛に思いを馳せて作った句です。

彼は敦盛を祀った石塔について

「涙をとどめることができない。年齢もわずか十六歳で戦場に出て、熊谷と組討ちをしてはなばなしい武名を残した」

と感想を述べたそうです。

与謝蕪村も、

「笛の音に 波もよりくる 須磨の秋」

という歌を残しています。

江戸時代には非常に高価だった青葉の笛拝観料

1688年に芭蕉が須磨寺を訪れたことが記録に残っています。

彼が伊賀上野の門人猿雖えんすい宛の手紙を送り、その中で敦盛の笛のことだと考えられる「高麗笛」の拝観についてチクリと書いた部分があります。

当時の笛の拝観料は非常に高価で、彼は手紙の中で

「みるまでもなし」

との感想を残しているのです。

芭蕉が拝観した上で述べた感想なのか、高価なために拝観せずにそう手紙に書いたのかは、今でもよくわかっていません。

通説では、芭蕉は笛を見なかったということになっているそうです・・・。

当時の拝観料は10疋(100文)。

当時のそばが一杯16文だったそうですから、かなり高価だったことがわかります。

芭蕉の感想は正直で現実的ではありますね。

ちなみに現在須磨寺の拝観料は無料となっているようです。

 

きょうのまとめ

平敦盛は悲劇の貴公子として後世の多くの人々に愛され、惜しまれた人物です。

平敦盛とは

① 初陣で若い命を落としてしまった不運な平家の青年武将

② 『平家物語』を始め、織田信長が好んで舞った「人生五十年・・・」の歌の幸若舞など後世の歌や舞台の題材になって有名・無名の多くの人々に愛された悲劇の人

③ 墓は「胴塚」「首塚」として護られ、今でも多くの人々に慕われる若き貴公子

でした。

関連記事 >>>> 「『平家物語』と花になった、平敦盛と熊谷直実」

関連記事 >>>> 「名門家系出身で「美少年」の人、それは平敦盛」

関連記事 >>>> 「平敦盛の笛と首と宝を守り続ける寺」

 

その他の人物はこちら

江戸時代に活躍した歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【平安時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

時代別 歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

 




合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

twelve − twelve =

ABOUTこの記事をかいた人

歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku