崇徳天皇は平安時代の終わりに近い院政期に登場した不遇な天皇ですが、同時に日本最強の怨霊だとも言われています。
平将門、菅原道真と共に怨霊として長く人々を恐怖に陥れた天皇とは、一体どんな人物だったのでしょうか。
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崇徳天皇はどんな人?
- 出身地:京(現在の京都市)
- 生年月日:1119年5月28日
- 死亡年月日:1164年9月14日(享年46歳)
- 第75代天皇。在位中は父親の鳥羽上皇による院政にコントロールされ、のち上皇の思惑で譲位させられた。保元の乱で実弟の後白河天皇と対立し、敗戦後讃岐国に流刑となってその地で没した
崇徳天皇年表
西暦(年齢)
1119年(1歳)5月28日誕生。すぐに親王宣下を受ける
1123年(5歳)天皇即位したが、実権は白河法皇が握り院政をしく
1129年(11歳)藤原聖子が入内、白河法皇崩御後、鳥羽上皇が院政を開始
1140年(22歳)女房の兵衛佐局が第一皇子・重仁親王を産む
1141年(23歳)譲位。近衛天皇が誕生
1155年(36歳)近衛天皇崩御。後白河天皇の誕生
1156年(37歳)保元の乱。敗戦した崇徳上皇は讃岐へ配流となる
1164年(46歳)9月14日、讃岐国にて崩御
崇徳天皇の生涯
天皇という地位にありながら、政治の表舞台に立つことをことごとく阻まれた崇徳天皇は悲運の人でした。
父親の謎と天皇即位から譲位まで
鳥羽天皇と藤原璋子の第一皇子として1119年5月28日に誕生。
1123年には数え年5歳で天皇即位し、崇徳天皇誕生となりました。
即位は鳥羽帝の祖父である白河法皇の意向でした。
実は、崇徳天皇は白河法皇と璋子の不義の子だと考えられ、鳥羽天皇からは疎まれました。
幼い崇徳天皇に実権はなく、白河法皇の生前には白河法皇が、白河法皇の死後は鳥羽帝が院政をしいています。
鳥羽帝と崇徳天皇との確執は深まり、天皇が成長すると上皇は崇徳天皇に譲位させます。
そして1141年、鳥羽帝は自分が寵愛する藤原得子(美福門院)の子で崇徳天皇の異母弟・躰仁親王を天皇に即位させたのです。
近衛天皇が17歳で死没すると、崇徳上皇は自分の息子の即位に望みをかけましたが、それも鳥羽帝につぶされました。
1155年、次の天皇としての最有力候補だった崇徳上皇の子・重仁親王は天皇になれず、崇徳上皇の同母弟の後白河天皇が誕生しました。
崇徳上皇の院政はまたもや実現しなかったのです。
保元の乱の敗戦と配流、そして死
鳥羽帝が亡くなると、崇徳上皇は後白河天皇と対立。
そこへ摂関家の内紛が絡み、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分れて武力衝突しました。
これが1156年の保元の乱です。
結局、平清盛・源義朝らを動員して戦った後白河天皇側の勝利となり、敗北した崇徳上皇は讃岐国へと配流されました。
1164年、崇徳院は再び都に戻ることはないまま46歳の若さで崩御。
京からの刺客によって暗殺されたという説もあります。
崇徳天皇が怨霊になった理由と呪詛の力
父親に疎まれ、悲運の人生を送った崇徳上皇は、配流先の讃岐国で怨霊になったと言われています。
彼が怨霊になったといわれる原因とは何でしょうか?
崇徳上皇は院政のチャンスを徹底的に排除された
崇徳天皇は、幼い頃から鳥羽上皇の院政のためのお飾りのような天皇でした。
・政務を執れる年ごろになると鳥羽帝により半ばだまされて譲位させられた
・鳥羽帝の画策で崇徳天皇の弟として即位した近衛天皇には院政を行えず、あくまで新天皇の父親である鳥羽帝の院政が続いた
(近衛天皇は、鳥羽上皇と寵妃・美福門院との子で、崇徳天皇との関係は異母弟であり養子。譲位後は、崇徳上皇が自分の子のために院政を行えるはずだったが、鳥羽帝の画策で「皇太子」ではなく「皇太弟」に譲位したこととなり、天皇の親としての院政の可能性が潰された)
・近衛天皇の崩御後、天皇にもっとも近いとされた崇徳天皇の皇子・重仁親王は天皇即位できず、鳥羽帝により崇徳上皇の同母弟・後白河天皇が誕生
父親の臨終の見舞いを拒否された
1156年、崇徳上皇は父・鳥羽帝の臨終の時にも対面はかないませんでした。
鳥羽帝は自分の遺体を崇徳院に見せないように側近に命令していたのです。
崇徳上皇は鳥羽帝が死ぬまでその存在を拒否され続けたわけでした。
写本を突き返された
讃岐国へと流された崇徳上皇は、心の平安を求めてその地で仏教に深く帰依しました。
保元の乱における戦死者の供養のため、そして自らの反省の証として経典の写本を行い、京の寺院に納めてもらえるよう朝廷に送ったのです。
しかし、後白河天皇は写本に呪詛が込められていることを疑い、それらを送り返してしまいました。
その仕打ちに激怒した崇徳院は舌をかみ切り、写本に
「この経を魔道に回向す」
と血で書き記し海に沈めたといいます。
それ以降、髪の毛も爪も伸ばし放題の凄まじい姿となりひたすら天皇家と朝廷を呪い続けたそうです。
崩御後も罪人扱い
保元の乱のあと罪人となった崇徳天皇は、配流生活中も彼の崩御後でさえ罪を許されることはありませんでした。
崇徳院の葬儀は、讃岐の国司によっておこなわれ、朝廷からは無視されて何も行われていません。
怨霊の威力とおそれた人々
崇徳院が亡くなった後、都では大火や疫病が相次ぎます。
1177年には「延暦寺の強訴」「安元の大火」「鹿ケ谷の陰謀」といった重大な事件が立て続けに起き、人々は崇徳院の怨霊によるものだと噂しました。
当時の権力者・平清盛の娘で、高倉天皇の中宮の平徳子は、たびたび崇徳院の怨霊に悩まされたそうです。
崇徳天皇の祟りは、国家的動乱となって死後約100年おきに起きたと言われています。
・14世紀半ばの南北朝の対立
・15世紀半ばの応仁の乱
・崇徳天皇の死からちょうど700年後1864年の禁門の変(長州藩による京都御所乱入)
・1866年、崇徳天皇の御霊を都に戻そうとした孝明天皇の疱瘡(天然痘)による急死
祟りをおそれた朝廷や天皇家は、のちに崇徳天皇の御霊の鎮魂を行っています。
1184年に朝廷は保元の乱の戦場跡地・春日河原に「崇徳院廟」を設置。
孝明天皇の意志を継いだ明治天皇は崇徳院の御霊を京都へ帰還させ「白峯神宮」を創建しました。
さらに昭和天皇も崇徳天皇陵で式年祭を執り行っています。
歌人としての崇徳天皇
実は、崇徳天皇は歌人としての顔もありました。
鳥羽帝は和歌には熱心でなかったので、当時の日本の歌壇は崇徳天皇が中心。
天皇在位中には歌会を開催し、上皇となってからも『久安百首』を作成したり『詞花和歌集』を撰集(多くの人の歌の傑作選の編集)したりしています。
小倉百人一首に選ばれた崇徳天皇の有名な歌をご紹介しましょう。
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
(川の流れが早いので、岩にせき止められた急流が時にはふたつに分かれても、また必ず一つに合流するようにあなたと私の間も、<たとえ人に妨害されて離れることがあっても> またきっと結ばれると思っています)
この有名な恋の歌に聞き覚えのある方もいるかもしれませんね。
崇徳天皇の墓
第75代崇徳天皇の陵墓は、配流先だった讃岐国(現在の香川県)の白峰山の山頂にあります。
崇徳院の遺体は、白峯寺の西北の地で荼毘に付され、そこに白峯陵がつくられました。
現在白峯陵は、四国にある唯一の天皇陵として宮内庁の管理下となっています。
<崇徳天皇の墓 白峯陵:香川県坂出市青海町字 御山2677>
きょうのまとめ
簡単なまとめ
崇徳天皇とは、
①自分を嫌う鳥羽帝によって、政務を行う機会をことごとく奪われた悲運の天皇
②後白河天皇との対立と摂関家の内紛が原因となった保元の乱で敗北した人物
③保元の乱後に讃岐国に配流され、死後も天皇家を呪詛した怨霊になったとされる人
でした。
崇徳天皇の出生について疑い、白河法皇の子であると鳥羽帝が信じたこと、それが崇徳天皇の悲劇の始まりだったと言えるかもしれません。
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