運慶とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

鎌倉時代に大活躍した仏師、運慶うんけい

名前くらいは耳にしたことがありませんか? 

今回は運慶とはどんな人物だったのか見ていきましょう。

 

運慶とはどんな人?

プロフィール
運慶

運慶
出典:Wikipedia

  • 出身地:未詳
  • 生年月日:1150年頃か
  • 死亡年月日:1223年12月11日(享年74歳*)*生年1150年とした場合
  • 鎌倉時代に武士好みの写実的で迫力ある仏像を生み出した、カリスマ的奈良仏師

運慶年表

 

年表

西暦(年齢)*年齢は生年1150年と仮定した場合

1150年頃(1歳)このころ誕生

1173年(24歳)運慶の長男・湛慶たんけい誕生

1176年(27歳)奈良・円成寺えんじょうじの大日如来坐像完成

1180年(31歳)平重衡による南都焼討で東大寺・興福寺焼亡

1185年(36歳)平氏滅亡。東大寺大仏の再興開眼

1189年(40歳)神奈川県・浄楽寺じょうらくじの阿弥陀如来坐像(阿弥陀三尊像)を造立

1203年(54歳)奈良県・東大寺南大門の金剛力士立像を造立。運慶、奈良仏師系統の仏師として初めて法印ほういんの位を得る

1212年(63歳)奈良県・興福寺北円堂の無著菩薩立像むじゃくぼさつりゅうぞう世親せしん菩薩立像を造立

1216年(67歳)神奈川県・称名寺しょうみょうじ光明院の大威徳明王坐像を造る(現存する最後の作品)

1223年(74歳)死没

 

運慶の生涯

運慶の生い立ちについてはよくわかっていません。

1150年頃、奈良の興福寺を拠点として活躍していた仏師・康慶こうけいの息子として誕生したと言われています。

慶派・運慶のデビュー

運慶やその父親・康慶は、平安時代に主流だった定朝様じょうちょうようを受け継ぐ慶派けいはと呼ばれるグループで活躍する仏師でした。

彼らは奈良・興福寺を拠点として活動していたので、都の京を拠点とする円派えんぱ院派いんぱの仏師らと比べて、その仕事内容は地味な修理作業がメイン。

それでも、平安時代より前の仏像作品に触れる機会が多かったので、当時の像だけでなく古い時代の像の構造などを研究しながらその実力を高めていました。

運慶のデビュー作は、台座の裏に彼の銘が残っていたことから1176年に完成した円成寺の大日如来像と言われます。

鎌倉時代の寺院再興がチャンスだった

奈良の東大寺や興福寺は、1181年の平重衡たいらのしげひららによる南都焼き討ちのために焼亡していました。

これらを再建するために京仏師のグループ円派と院派そして奈良仏師の慶派が造仏を担当しています。

運慶は興福寺での造仏に区切りがつくと、すぐに鎌倉へ向かいました。

そこでは鎌倉幕府の実力者・北条時政ときまさ発願ほつがんによる静岡県の願成就院がんじょうじゅいん

・阿弥陀如来像

・不動明王

などを作っています。

また、1189年には鎌倉幕府初代別当にもなった和田義盛わだよしもり発願による神奈川県横須賀市・浄楽寺

・阿弥陀三尊像

・不動明王像

・毘沙門天像

を造りました。

修復ではなく新しい仏像を作る時に、慶派の運慶の像は今までの定朝様とは全く違う写実的で豪快なものでした。

それらは東国の武士たちの気風に合い、彼らに高く評価されたのです。

生み出す数々の傑作、運慶の死

鎌倉での仕事のあと奈良に戻った運慶は、慶派の頭領として康慶のあとを継ぎました。

東大寺の復興造仏に着手し、数々の像を手掛けました。

いずれものちに建物ごと焼失していますが、1203年造立の東大寺南大門 金剛力士(仁王)は現存しています。

1203年の東大寺総供養の際には造像の功績を認められ、運慶は奈良仏師として初めて僧位としては最高の「法印」という位に任ぜられています。

波に乗る運慶一門は、1208年から1212年にかけ興福寺北円堂の諸像を造りました。

中でも現存する無著菩薩世親菩薩像は肖像彫刻としては日本最高クラスの出来映えです。

最晩年の運慶は慶派仏師を率いて、

源実朝みなもとのさねとも

・北条政子

・北条義時

など当時の実力者や鎌倉幕府の要人たちの依頼で多くの像仏に携わりました。

立場上殺生をせずには世を渡れない武士という存在。

彼らは新しい仏教による救済を求めていました。

運慶たちの作る仏像は、彼らの求める新仏教を表現する新しい仏像だったのです。

神奈川県称名寺光明院の大威徳明王だいいとくみょうおう現存する運慶の最後の作品です。

1223年12月11日、運慶はその生涯を閉じました。

 

慶派とは?

さて、運慶や彼の父親・康慶が活躍した慶派とはどういう集団だったのでしょうか。

慶派の特徴

平安時代の仏師・定朝が大成した優美な仏像は「定朝様」と呼ばれます。

運慶が生まれたころもまだ平等院鳳凰堂びょうどういんほうおうどうの阿弥陀如来像のような優美な仏像が主流となっていました。

仏像を作る仏師の世界では当時、定朝様を受け継ぐグループとして、主に京で活躍する円派・院派、そして奈良の慶派がありました。

円派・院派・慶派はそれぞれ「円」「院」「慶」一文字を名前(仏師号)に持つ仏師の集団です。

運慶の慶派という系統は、定朝様をそのまま踏襲する京の円派・院派と違い、写実的で男性的な迫力のある仏像を作るのを得意とするようになっていきました。

さらに慶派には

・水晶を目の形に削り彩色して仏にはめ込む「玉眼」を用いて、眼光鋭く、生き生きした像を作る

・像に仏師の銘を刻む

などの特徴もありました。

運慶と康慶、そして快慶

康慶は運慶と快慶の師であり、運慶の実の父親です。

運慶と快慶は、兄弟弟子ですが血の繋がった兄弟ではありません。

彼らをシンプルに紹介すると、

・康慶は運慶の父で、慶派の立役者となった仏師

・運慶は康慶の跡を継いだ慶派の直系頭領で、東国、有力寺社などの芸術家的な造仏を多く手掛けた仏師

・快慶は康慶に学んだ慶派工房の非常に優れた技術者で、民衆のための小さな阿弥陀仏などを多く手掛けた仏師

ということになります。

また、運慶には6人の息子たちがおり、いずれも仏師となりました。

現存する像の仏師として知られる者は、

・三十三間堂の復興造像の大仏師で、運慶から継承して慶派の頭領となった湛慶たんけい

・興福寺の龍燈鬼りゅうとうきを造像した康弁こうべん

・六波羅蜜寺・空也上人立像を造像した康勝こうしょう

がいます。

 

ぜひ見て欲しい運慶3つの代表作

現存する運慶の仏像は31体あるとされています。

史料により間違いなく運慶作だと確認される作品は全部で18体。

あと13体は作風などから運慶の手によると考えられていますが、まだ100%の確証がありません。

運慶の造る像には

・男性的

・力強い表情

・強弱の変化がある衣文

・がっちりとした力強い体躯

などの特徴が見られます。

では運慶の3つの代表作をご紹介しましょう。

国宝 東大寺南大門 金剛力士像

東大寺金剛力士像(阿形像)

東大寺金剛力士像(阿形像)
出典:Wikipedia

上半身が裸の阿形あぎょう像と吽形うんぎょう像2体の「仁王さま」は、高さ8.4m。

モリモリした筋肉とカッと見開いた目や顔の表情が迫力たっぷりです。

運慶による制作総指揮のもと、20人近い仏師たちが約2ヶ月という驚異的スピードで造像。

慶派仏師の技術を結集した日本で最も知られた木彫りの仁王さまです。

国宝 円成寺 大日如来坐像

円成寺大日如来像

円成寺大日如来像
出典:Wikipedia

20代の運慶が1年かけて一人で作ったと考えられる、彼の最初期の作品です。

宝冠をかぶり静かに座して智拳印ちけんいんを結ぶ大日如来は、慶派の特徴である「玉眼」が使用され、凜とした端正な顔立ちで若々しい仕上がりです。

台座の裏の「大仏師康慶実弟子運慶」の墨書は、日本美術史上最初の作者による署名です。

国宝 興福寺北円堂 無著菩薩立像・世親菩薩立像

興福寺北円堂世親像

興福寺北円堂世親像
出典:Wikipedia

弥勒如来像の両脇に脇侍わきじとして安置されています。

運慶の指揮・指導により、彼の息子たちが制作したと考えられる像です。

無著・世親とは、5世紀頃に北インドで法相宗ほっそうしゅうの教えを確立させた実在の兄弟僧。

玉眼の目は生きているように光り、微妙な表情を漂わせ、老人と壮年という兄弟の年齢や体型の違いなどの表現が見事な肖像彫刻の傑作です。

運慶や慶派の作品はまだあります。 

機会があればこれらの3作品や慶派の作ったその他の像をぜひ直接ご覧になり、運慶一門の凄さを感じてください。

 

運慶の墓所

仏師・運慶の墓は鹿児島の宝満寺ほうまんじにあります。

一度は廃寺となっていましたが、再建されました。

今はもう存在しない如意輪観音が運慶の作だったという伝説のある寺院です。

古い大きな五輪塔があり、鹿児島で造像作業をしていてその地で亡くなった運慶の墓だと言われています。

<宝満寺 運慶の墓:鹿児島県志布志市志布志町帖6537>

 

きょうのまとめ

今回は、誰もがその名を聞いたことのある仏師・運慶についてご紹介しました。

簡単なまとめ

運慶とは、

① 康慶の跡を継いで慶派を率い、奈良と東国を中心に活躍した頭領

② 充実した体躯・迫力・力強さ・写実性のある造像で鎌倉武士たちに好まれた大仏師

③ 卓抜した技術で数々の傑作を残し、後継につないだ仏像造りの偉大なプロ

でした。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku