飛鳥時代に天皇を凌ぐ権力を誇った蘇我氏。
乙巳の変で中大兄皇子らに蘇我入鹿が討たれて以来
蘇我氏はどうなっていったのでしょうか。
また、そもそも蘇我氏の祖先はどのような人物だったのでしょうか。
今回は蘇我入鹿の家系図について紹介します。
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蘇我入鹿の家系図
まずは、蘇我入鹿の家系図をみていきましょう。
祖先は武内宿禰
蘇我入鹿の先祖をさかのぼると、「伝説の忠臣」と呼ばれた武内宿禰にたどり着きます。
第12代景行天皇から第16代仁徳天皇の4代の天皇に仕え、「238歳まで生きた」といわれています。
特に神功皇后の三韓征伐を助けたエピソードが有名です。
武内宿禰の息子達は天皇に仕える豪族の祖になりました。
その一人の蘇我石川が蘇我氏の祖と伝えられる
人物です。
武内宿禰も蘇我石川も実存は確認されていません。
蘇我稲目から蝦夷まで
蘇我石川の後、渡来人との関係が深かった蘇我氏。
渡来人からもたらされた最新技術を強みに、台頭していったのではないかといわれています。
蘇我氏が頭角をあらわすようになるのは、
武内宿禰から5代目の子孫で蘇我入鹿の曽祖父にあたる
蘇我稲目からです。
蘇我稲目は自分の娘を天皇の妃にすることで、天皇の外戚となり勢力を強めました。
稲目の後を継ぎ、息子の馬子や孫の蝦夷も権力を拡大しました。
(馬子は入鹿の祖父に、蝦夷は父になります。)
乙巳の変で中大兄皇子らに蘇我入鹿が討たれるまで、栄光の時代は続きます。
入鹿の子孫達
入鹿には子どもがいなかった為、直系の子孫はいません。
蘇我氏の系統は入鹿の従兄弟の蘇我倉石川山田麻呂や蘇我連子の子どもたちが引き継ぎました。
蘇我安麻呂、蘇我氏から石川氏へ
蘇我連子の息子である蘇我安麻呂が天武天皇から「石川姓」を賜り以後、蘇我氏は石川氏と名乗るようになります。
蘇我安麻呂は天武天皇が大海人皇子だったときから親しい関係です。
天武天皇に、中大兄皇子(天智天皇)の罠に気をつけるように進言した人物です。
「壬申の乱」の際も、蘇我氏の有力者たちが大友皇子側につく中、蘇我安麻呂は大海人皇子側で戦いました。
そのような功績が称えられ、石川姓を与えられたのです。
その後、石川氏は、藤原氏が栄華を極める中、細々と朝廷内で生き続けます。
しかし度重なる陰謀や政変に翻弄され衰退していきます。
平安時代には、石川真守を最後に、公卿(位の高い貴族)を出すことが出来なくなりました。
以降、石川氏は歴史の表舞台から消えることになります。
天皇家 藤原氏の血脈
歴史の表舞台から消えることになりますが、
女性を通して、藤原氏や天皇家の中に蘇我氏の血筋を残しました。
藤原不比等の正妻は蘇我娼子という女性で入鹿の従兄弟、蘇我連子の娘にあたります。
蘇我娼子は藤原不比等との間に3男をもうけました。
次男の房前が興した藤原北家は後に五摂家と呼ばれるようになり、栄華を誇りました。
現在も、五摂家は続いています。
また、天智天皇の曾祖母は蘇我堅塩媛で蘇我稲目の娘にあたる女性です。
したがって、現在の天皇陛下も蘇我家の子孫ということになります。
きょうのまとめ
蘇我入鹿の家系図について、ご紹介しました。
いかがでしたでしょうか。
簡単にまとめると
① 蘇我入鹿の祖先は武内宿禰である
② 蘇我稲目の代から蘇我氏の台頭がはじまる
③ 乙巳の変の後は入鹿の従兄弟達の子孫が蘇我氏の系統を継ぐ
④ 蘇我氏は石川氏に姓を変えるが平安時代以降に廃れてしまう
⑤ 藤原氏や天皇家の中で血脈を残している
と言えるのではないでしょうか。
蘇我入鹿については他にも記事がございますので
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