白河天皇は1086年に上皇となって院政を初めて行った人物です。
天皇の父や祖父である地位を利用して思うがままの政治を行いました。
今回は、その白河天皇が頭を痛めたモノについてのお話しです。
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天下三不如意
強大な権力をふるった白河天皇。
堀河天皇の即位のときから上皇となり、のちに出家して法皇となりました。
そんな白河法皇にも悩み事はあったようです。
『平家物語』の第一巻に白河法皇が嘆いた以下の言葉が伝わっています。
「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ我が心にかなはぬもの」と、白河院も仰せなりけるとかや。
これはどういう意味でしょうか?
さすがの白河法皇もここに挙げた3つの事象には参っていたのです。
「賀茂川の水」とは、現在の鴨川のことで、古来よりこの川は氾濫を繰り返し、法皇にも天災を抑えることはできませんでした。
また、「双六の賽」とは、サイコロが出す目のことで、これも確率の問題ですからどうしようもありません。
さて、最後の「山法師」とは比叡山の僧兵のことです。
多くの荘園を持ち、経済基盤がしっかりしていた大寺院は力を持ち、発言力を増していました。
そして、彼らの利権に不利なことが生じると、寺院に属する僧兵たちが都の朝廷に押し寄せる「強訴」を行ったのです。
これこそ、白河法皇が何とかしたかった問題でした。
そしてこの平家物語で表わされた逸話は、裏返すと「賀茂川の水、双六の賽、山法師」以外の全てが思いのままになる、という白河法皇の絶大な権力を示したものだったのです。
僧兵や強訴はなぜ生まれた?
僧兵の風貌をイメージするのに一番イメージしやすい人物の例を挙げると、それは武蔵坊弁慶でしょう。
頭を頭巾のようなもので包み、高下駄を履いて、薙刀を武器として持っていたのが特徴的ですね。
僧であるのに、まるで兵士のようでした。
僧兵の誕生
元々は、京都や奈良の大寺院の下級僧侶(学問や修業などのほかに寺の運営実務を行っていた)たちです。
中下級の貴族や武家などの出身で武術に心得のある者も多かったのです。
平安時代の治安は乱れていました。
広大な寺領を持つ豊かな寺院たちは、自衛のため、そして他の勢力に対抗するために武装をし始めたのです。
平安時代末期では、特に
・興福寺
・園城寺
・東大寺
などの寺院が、大きな武力を持つようになりました。
延暦寺の僧兵は「山門」、園城寺の僧兵は「寺門」と呼ばれ、焼き討ちなどが伴う激しい寺院同士の抗争も繰り広げられていました。
また、寺院だけでなく大きな神社も同様の武力を持っていました。
強訴の目的
僧兵たちは、信心深い貴族たちが政治を動かす朝廷に対し、仏罰や神罰をかざして武力で自分たちの要求を通そうとしました。
中でも強訴を最も多く繰り返したのが興福寺と比叡山延暦寺。
興福寺は春日大社の神木を、延暦寺は日吉大社の神輿といった宗教的シンボルを持ち出して内裏(御所のこと)に押しかけました。
彼らが要求したのは、自分たちの寺社の荘園に対する国司の侵害への抗議や他の寺社の優遇の阻止などで、営利目的でした。
人々の信仰のための寺社は、荘園などの利権によって貴族化していき、武力まで従えて力を持つようになったのでした。
きょうのまとめ
今回は、白河天皇の頭痛のタネである「天下三不如意」についてご紹介いたしました。
簡単にまとめると
① 白河法皇の「天下三不如意」とは、「賀茂川の水、双六の賽の目、山法師」のこと
② 大きな寺社たちは利権を守るための自衛手段として山法師、つまり僧兵を組織した
③ 絶大な権力を持った白河天皇も、宗教心を楯に利権を確保し要求を押し通そうとする大寺院の僧兵による強訴に悩まされた
人々の信心を逆手にとって、およそ宗教とは関係ないはずの利権のために朝廷を武力で脅すというこの強訴。
さすがの白河法皇も頭を悩ませたわけでした。
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