ここでは、白河天皇が始めた院政のいきさつについて
その天皇家家系図と見比べながら見ていきましょう。
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白河天皇に続く天皇家の家系図
白河天皇の父・後三条天皇が天皇に即位(1068年)するまでの約170年間、天皇家は自由に政治を行えない立場にありました。
というのも、藤原氏が天皇家の外戚(母方の親類のこと)として摂政や関白となって実質的に政治を仕切っていたからでした。
後冷泉天皇にプッシュする摂関家
1045年、白河天皇の祖父である後朱雀天皇が退位すると、すぐに第一皇子が第70代後冷泉天皇として即位しました。
藤原道長の息子・頼通は一人娘の寛子を後冷泉天皇の皇后にして外戚関係を作ろうとプッシュします。
後冷泉天皇に皇子ができればそれは頼通の孫であり、孫が次の天皇になれば外戚関係となる藤原氏の政治的権力が保証されるからです。
しかし、後冷泉天皇と寛子の間に後継の皇子は恵まれませんでした。
自由な立場の後三条天皇誕生
後冷泉天皇の後継には弟の皇子が即位します。
ついに71代天皇は藤原氏と外戚関係のない後三条天皇となりました。
白河天皇の父となる後三条天皇は後朱雀天皇の第二皇子で、母親は三条天皇の第三王女・禎子内親王です。
禎子内親王は藤原道長の外孫ですが、当時の関白藤原頼通やその弟教通とは仲が悪かったのです。
後三条天皇は藤原氏に影響を受けにくい立場で親政(天皇自ら政治を執ること)を行い、
できる限り藤原氏の力を排除しようと対抗したのです。
もちろん、次期天皇についても藤原氏の影響を受けない親王を跡継ぎとして選びたかったのです。
次への「つなぎ」だった白河天皇の即位
後三条天皇には3人の皇子がいました。
第一皇子だったのが白河天皇となる貞仁親王。
しかし、貞仁親王の寵愛した后の藤原賢子は関白である藤原師実の養女。
藤原摂関家の影響を避けたい後三条天皇が、本当に自分の後継者にしたかったのは、
第二・第三皇子である白河天皇の異母弟・実仁親王
とその弟の輔仁親王です。
1072年に白河天皇が即位します。
しかし、それはまだ幼い弟が次の天皇として即位するまでの「つなぎ」役でした。
つまり、白河天皇の後継者として異母弟の実仁親王が皇太弟となることが既に決められていたのです。
白河天皇はそれに不満でしたが、藤原氏に関わる自分の息子が次期天皇になると、また天皇家は藤原氏にコントロールされるかもしれません。
藤原氏を排斥したい白河天皇は、異母弟の次期天皇を認めざるを得ませんでした。
チャンスを掴んだ白河天皇
ところが、1085年にその皇太弟の実仁親王が薨去(三位以上の高位の者が亡くなること)。
そのチャンスを白河天皇は逃しませんでした。
翌年に8歳の息子善仁親王を皇太子にしたかと思うと、その日に譲位して堀河天皇として即位させてしまったのです。
その時、堀河天皇の生母であり関白の養女であった白河天皇の皇后は、もう亡くなっていました。
白河天皇は上皇となって8歳の天皇を後見し、自ら政務を執って比較的自由に「院政」が開始できたのです。
邪魔者なきあとの絶大な権力
院政開始当初の白河天皇は、関白・藤原師通との協力体制のもとで政務を行っていました。
しかし、1099年に師通の死没で藤原家の関白機能がストップします。
さらに1107年に堀河天皇も若くして崩御(天皇や皇后などが亡くなること)してしまいました。
そのため第74代の鳥羽天皇が5歳で即位しましたが、藤原家の摂政は未熟であり、結局既に出家して法皇となっていた白河法皇が全てを取り仕切ることになったのです。
白河法皇の異母弟・輔仁親王は次の天皇への期待も高かったのですが、その後、鳥羽天皇の暗殺未遂事件に巻き込まれ、没落してしまいました。
そのため、白河法皇には思い通りの院政を行うことができる環境が整います。
孫の鳥羽天皇、曾孫の崇徳天皇の代まで天皇を後見することで絶大な権力を持つことが出来たのです。
きょうのまとめ
今回は白河天皇の家系図とともに白河天皇が院政を始めるきっかけと権力を手中に収めるまでについての経緯をご紹介しました。
簡単にまとめると
① 後三条天皇は、長男の貞仁親王(のちの白河天皇)を後継に望んだわけではない
② 白河天皇は異母弟が天皇即位するまでのあいだの「つなぎ」の天皇として即位した
③ 白河天皇は皇太弟の没後すぐに長男を天皇に即位させ、上皇となって院政を開始した
摂関家の弱体化と身内の死や没落などのチャンスを逃さなかったことが、院政を成功させた白河天皇の勝因でしょう。
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