幕末の名君、薩摩藩の藩主、
島津斉彬は11人の子供がいました。
しかし成人したのは三女、四女、五女の3人だけです。
他の子供たちは、早世してしまったのです。
そして、子供を産んだのは四女だけです。
今回は、島津斉彬の子孫について調べてみました。
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島津斉彬の子供たちと島津家の子孫たち
島津斉彬は11人の子供をなしました。
しかし、3人の娘以外が全て早世してしまいます。
島津斉彬の子供と久光の長男
当時の大名は正室(正妻)の他に側室を持つのが普通です。
自分の血を後世に残していくのも大事な仕事でした。
当然、島津斉彬も側室をもち、子供も11人作っています。
今の感覚では多いですが、弟の久光も同じくらいの数の子供を作っていますので、当時としては特殊でもなかったでしょう。
島津斉彬は弟・久光の長男である又次郎(忠義)を養子にします。
その時点で島津斉彬の息子は生きていましたが、
後継者の順番としては養子の又次郎(忠義)を指名し、
まだ幼かった斉彬の子供が成長するまでの藩主とすることにしたのです。
弟・久光との仲が悪くなかったことが分かります。
男性の場合、かなりの高齢でも生殖能力を維持している例があり、
島津斉彬の曽祖父の重豪などは60を過ぎても子を作っていました。
斉彬の血を引く男子は全て早世しますが、四女の典子が成人し、斉彬の孫となる人物を産んでいます。
その血筋は現代まで続いていますし、
島津家としての家系図も途切れることなく現代につながっています。
島津家の子孫
島津家は久光の長男の忠義が継ぎ、藩主となります。
島津忠義の玄孫には、
徳川家18代当主の徳川家広氏がいます。
『「豊かさ」の誕生―成長と発展の文明史』と言う名著を翻訳した経済学者、翻訳家です。
そのほか多くの有名企業の社長や大学の理事などになる人物を輩出しています。
島津家の血統・家系図は、現代の日本の上流階級にも浸透しています。
島津斉彬の娘の子孫もまた同じく日本のエスタブリッシュメントともいうべき階層に広がっているようです。
天皇家につながる血筋
とくに島津家の家系図をみたときに驚くのは、
現在の上皇陛下にその血がつながっていることが分かる点です。
昭和天皇の皇后であった香淳皇后、
つまり現在の上皇陛下の母親は島津家の血を引いているのです。
島津久光のひ孫にあたる、久邇宮朝彦親王の孫娘が香淳皇后です。
日本の家格の頂点に立つ天皇家に、その家系図がつながる島津家は
やはり名門であると言うしかありません。
現代の上流階級に残る島津家の血筋
鎌倉時代に薩摩に定着し、室町時代の一族の内乱ともいえる抗争を経て、
島津を支配し九州に大勢力を持つに至った島津家。
その島津家が生み出した幕末の名君、島津斉彬は多くの子をなしましたが、
男子は全て早世し四女だけがその血を現在につなげています。
しかし、島津家という血の系脈は、現代まで大きく日本の上流に広がっています。
武家と言う意味では、徳川家よりも古く家系図をさかのぼることの出来る名門なのですから、
それも当然かもしれません。
現代になっても、家格、家柄が存在価値を示す階層は日本の中に存在します。
ただ、それを意識しなくとも別に生活には何も問題なく、
島津家に連なる人たちもかなりの方が学者などの方面に進んでいるようです。
藩閥支配が現代に残っていると思う人など誰もいないでしょうし、
実際そのような支配はありません。
きょうのまとめ
島津斉彬の子孫、今に連なる島津家の血脈、家系図について調べてみました。
いかがでしたでしょうか。
簡単にまとめると
① 島津斉彬の子孫は現代もで生きている
② 島津家の血筋は日本の上流階級に浸透している
③ 島津家は天皇家とも血縁関係にある
と言えるのではないでしょうか。
その他にも島津斉彬にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞ御覧ください。
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