司馬遷とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

司馬遷(しばせん)は周代から続く歴史家の家に生まれました。

史記を執筆途中で宮刑(きゅうけい)により男性器を切り取られます。

このような屈辱に耐え、中国正史第一・最大の歴史書である史記を完成します。 

その背景と原動力は?

司馬遷とはどんな人物なのでしょう?

 

司馬遷はどんな人?

  • 出身地: 現在の中国陝西省(せんせいしょう)韓城市(かんじょうし)
  • 生年: 紀元前135年説と145年説年が有力ですが、ここでは135年説を採ります
  • 死亡年: 紀元前86年(享年49歳)
  • 中国前漢(以後、漢と記す)時代の歴史家で史記の著者。史記は中国の正史の第一位

 

司馬遷 年表

年表

前125年(10歳)この頃までに家塾で勉学を始め、尚書(しょうしょ)を暗記する。

前115年(20歳)中国各地を巡る大旅行に出発する。

前113年(22歳)旅から戻り、漢の官職である郎中に任命される。

前112年(23歳)武帝の巡遊に従い各地を巡る。

前110年(25歳)父、司馬談(しばたん)が死亡。

前108年(27歳)父の官職であった太子令(たいしれい)を継承する。

前104年(31歳)史記に取り掛かる。

前 99年(36歳)李陵(りりょう)を弁護したことにより宮刑に処せられる。

前 96年(39歳)大赦により釈放され、宦官の身で中書令に任命される。

前 90年(45歳)史記を完成する。

前 86年(49歳)

 

そもそも司馬氏とは?

周王朝より代々歴史・天文を司る一族でした。

父の司馬談は漢王朝に仕え、

太子公として国史の編纂(へんさん)や暦の制定にあたりました。

太子公: 中国前漢時代の官職。国史の編纂や暦の制定などにあたった

司馬遷が生きた時代

 

前202年、中国全土を統一し漢を建国した劉邦(りゅうほう/高祖)が前195年に崩御します。

その後、文帝、景帝を経て前141年太陽王と呼ばれる劉徹(りゅうてつ/武帝)が即位します。

武帝は前87年に崩御(ほうぎょ)しますが、司馬遷は武帝の治政の間に官職を得て史記を編纂します。

史記とは?

中国の正史で二十四史の筆頭です。

叙述範囲は黄帝(伝説上の五帝の一人)から漢の武帝までです。

本紀、表、書、世家、列伝の全130巻からなる紀伝体の歴史書で、中国の正史記述の雛形となっています。

大旅行・武帝の巡遊

官職を得る前の20歳ごろから、中国各地を回る大旅行をし、歴史上ゆかりの地を訪れます。

官職を得たのちは、武帝の巡遊に幾度も随行しました。

当時の漢の支配下にあった中国のほぼ全域を歴訪しており、旅先で長老を訪ねて故事を聞き、

太子令として各種資料に目を通して史記の構想を練ったと言われています。

李陵の禍ー宮刑

匈奴(きょうど)の単于(ぜんう)に投降したことで、武帝をはじめ皆から非難される友人の李陵を司馬遷ただ一人弁護します。

匈奴: 中央ユーラシアに存在した遊牧民族
単于: 匈奴の君主号(君主号とは君主の称号)

李陵の一族は全て処刑され、司馬遷は宮刑に処され投獄されます。

生殖器を切り取られるという恥辱にさらされても自害しなかったのは、史記の完成が父の遺言でもあったためと言われています。

4年後39歳で大赦により釈放され、中書令の官職を得ます。

宦官の身で史記の執筆を続け、足かけ15年を費やしてこの中国最高峰の歴史書を46歳で完成します。

[関連記事]

史記後の中国

漢は武帝の没後80年、王莽(おうもう)によって簒奪(さんだつ)されますが、20年で漢宗室の一人である劉秀・光武帝が奪還し後漢を建てます。

簒奪: 本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること

志賀島で出土した「 漢委奴国王 」金印は光武帝が贈ったものです。

後漢は200年続き、その後、日本人が大好きな三国志の時代となります。

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。司馬遷についていかがでしたでしょうか。

司馬遷とは?

① 代々歴史家の家に生まれた司馬遷にとって史記は必然の産物

② 不利を顧みず友人李陵を一人弁護するような強烈な信義の人

③ 宮刑を受けても史記を書き上げたのは司馬家代々の執念

と言えるのではないでしょうか。

その他の記事でも司馬遷についての様々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

15 − five =