司馬遷の残した歴史書「史記」と名言

 

司馬遷が史記を完成したのは紀元前90年、

そのころ日本は弥生時代の中期で100の小国が存在していた時代です。

卑弥呼の邪馬台国(2世紀~3世紀)はずっと後になります。

日本で史記が初めて引用されたのは続日本紀(797年完成)が最初です。

以来様々な文献に引用され、例えば紫式部は源氏物語の14か所に史記を引用しています。

清少納言も枕草子に史記の記述を引用しています。

現代日本で使われている名言(故事成句)で史記に由来しているものも多数あります。

 

司馬遷のルーツ

父の司馬談によれば司馬氏の家系は夏王朝以前まで遡り、代々歴史・天文を司っていたそうです。 

そこまでは行かなくても、周王朝で記録係をしていたのは間違いないようです。

祖父は漢王朝の爵位を得た司馬喜、父の司馬淡は太子公として暦の制定を終え、歴史書の編纂に取り掛かろうとしていたところで死去します。

太子公:中国前漢時代の官職。国史の編纂や暦の制定などにあたった。

司馬遷は父のやり残した仕事を引き継いで史記を執筆したということになります。

実際、史記には司馬淡が書いた部分があります。

秦の始皇帝の暗殺に失敗して命を落とした燕(えん)の荊軻(けいか)についての記述がそうです。

史記

成立過程と構成

史記のような歴史書を書く構想は司馬遷の父司馬淡がすでに持っていました。

父の遺志を継いだ司馬遷により完成しますが、すぐに世に出たわけではなく、娘の手を経て、孫によって広められたと言われています。

構成

本紀(ほんぎ) :12巻

表 :10巻

書 :8巻

世家(せいか) :30巻

列伝 :70巻

から成る紀伝体の歴史書でその後の中国歴史書の雛形となっています。

紀伝体:東アジアの歴史書の書式の一つ。「 紀伝 」は本紀・列伝に由来する。

記述範囲と信憑性

神話の時代から夏王朝、殷、周、春秋戦国、秦、前漢まで2千年以上をカバーしています。

記録が存在するのはせいぜい周代(前1100年~)からで、それより前は各地に残された言い伝えなどを基に書かれています。

しかし、1920年に史記に書かれた酒池肉林の殷の跡である殷墟(いんきょ)が発見され、その実在が証明されました。

また最近、殷より古い夏の遺跡ではないかと思われる二里頭(にりとう)遺跡も見つかっており、史記の正しさが見直されています。

故事成句

現代日本で使われている故事成句で史記に由来しているものも多数あります。

いくつかご紹介します。

四面楚歌

意味:周りのすべてが敵で、味方がいないこと

故事:垓下の戦いで、楚の項羽が漢の軍に包囲された時、夜になって四方の漢軍から楚の国の歌がうたわれるのを聞き、楚の人がすでに漢軍に降伏してしまったと思い絶望したというもの。

垓下の戦い:楚漢戦争で項羽の楚軍と劉邦の漢軍が垓下を中心に行った戦い。この戦いで項羽が死に、漢の勝利が決定的となった。

出典:史記「 項羽本紀 」

酒池肉林

意味:酒と肴が贅沢に並んだ宴のこと。

故事:殷の紂王(ちゅうおう)が、大量の酒で池をつくり肉の塊をつるして林にした豪奢なあそびを続けたことによる。

肉林は文字通りの食用の肉のことです。誤解なきよう。

出典:史記「 殷本紀 」など

寧ろ鶏口となるも牛後となるなかれ

意味:大きな集団の下でいるよりも、小さな集団でも一番になるほうがいい。

故事:戦国時代に蘇秦(そしん)という縦横家が、秦に対する周辺六国(韓・魏・楚・斉・燕・趙)の対応策として、強大な秦に従うより連合して対抗し一国の王という状態を維持したほうがいいと説いた。

出典:史記「 蘇秦伝 」

縦横家:中国古代の思想家たち。外交の策士として各国の間を行き来した。

きょうのまとめ

司馬遷と史記についていかがでしたでしょうか。

記録もないの時代の出来事を足と五感で集めて、

史記を書いた司馬遷の頭脳と執念は尋常ではないですね。

やはり司馬氏の血なのでしょうか?










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