写楽の名は広く知られていますが、
浮世絵師として活躍したのは江戸時代中期の約10ヶ月だけ。
そのため、謎だらけの絵師でもあります。
作品に東洲斎写楽という落款を記したこの絵師、どんな人物だったのでしょうか。
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写楽はどんな人?
- 出身地:未詳
- 生/没年月日:未詳(享年:未詳)
- 活動期間:1794年5月-17951月
- 居住地:江戸八丁堀(現在の東京都中央区)
- 江戸中期に約10ヶ月間に145点以上の浮世絵作品を発表し、突如消息不明となった謎の絵師
写楽年表
西暦
1794年5月 第1期の作品群である都座・桐座・河原崎座の役者絵が発表される
1794年7月・8月 第2期の作品群である都座・河原崎座(7月)・桐座(8月)の役者絵が発表される
1794年11月・閏11月 第3期の作品群である都座・桐座・河原崎座の役者絵、役者追善絵、相撲絵が発表される
1795年1月 第4期の作品群である都座・桐座の役者絵、相撲絵が発表される
東洲斎写楽の活動
写楽は葛飾北斎、安藤広重、喜多川歌麿と並んで江戸時代を代表する浮世絵師の1人です。
しかし、たったの10ヶ月の間に役者絵を中心とした作品を発表し、その後は忽然と消えてしまった謎の人物でした。
落款では東洲斎写楽もしくは写楽と名乗っています。
デビュー作は今までにないタイプの浮世絵
短い活動期間でしたが、写楽はわずか10ヶ月の間に145点以上の作品を発表しました。
ほとんどが版画です。
デビュー作は、いずれも役者の胸から上のポートレート「大首絵」と呼ばれるものでした。
芝居の興業に併せて演者を描くこのような作品は、「役者絵」と呼ばれ、俳優のブロマイドのようなものでした。
写楽は黒雲母を使用した雲母摺という技法で、キラキラ光る背景に役者を描くという豪華な仕立てで鮮烈デビューを果たしたのです。
ダイナミックな筆致で顔の特徴を捉えて大胆にデフォルメしたのが彼の画風でした。
当時浮世絵といえば、個人の特徴にはやや欠ける、女性美を追究した喜多川歌麿の美人画などが人気を博していました。
ですから、写楽の絵は別種のおもしろさを持った作品だったのです。
ところが、写楽の作品は人気がでません。
当時、芝居好きの人たちは、ひいきの役者が描かれた役者絵を購入したものでした。
写楽の絵は役者を美化するどころか、容姿の欠点とも思われる特徴まで誇張して描かれたために、売れなかったのです。
描かれた役者たちもハンサムや美人に描かれなかったことを不満に思ったそうです。
短期間に変わって行く写楽の絵
その後、写楽の作品は発表されるごとに、作風が変わっていきました。
大首絵ではなく、
・1人の全身像を描いたの細判の絵
・当時のイベントを描いた相撲絵や追善絵
なども描かれるようになりました。
作品サイズは小さくなったものが増え、背景もキラキラの雲母が使われず、舞台の様子などが背景として描かれるようになったのです。
画調はどんどんおとなしくなっていき、同時に芸術的な格調も消えていきました。
そして、ある時。
写楽は忽然と消えてしまったのです。
写楽を支えたプロデューサー・蔦屋重三郎
写楽の作品は全て一箇所の版元から出版されていました。
出版人は、蔦屋重三郎。
・朋誠堂喜三二(戯作者・狂歌師)や山東京伝の黄表紙・洒落本
などの出版も手掛けた人物です。
人の才能を見抜く目を持ち、面倒見がよいことでも知られていました。
交友範囲は広く、
・曲亭馬琴
・十返舎一九
など当時の文化を担う有名人たちとも接点を持っていました。
重三郎自身も蔦唐丸という狂歌名で活動した狂歌師だったといいますから、知的で洒落っ気のある人物だったのでしょう。
そんな彼が才能を見込み、浮世絵師としてデビューさせたのが写楽だったのです。
デビュー当時の写楽の作画スタイルは大衆には受けませんでした。
なんとか売り出そうと彼が画風を変えていったのは、プロデューサー・重三郎のアドバイスによるものかもしれません。
写楽とは誰だ?
写楽の正体は長い間ミステリーとされていました。
・短期間の前期と後期で作品の質が大きく変わったこと
これらの点から、多くの研究者がそこに
「何かの理由があるのではないか」
「写楽の正体は誰なのか」
の秘密に興味を持ったのです。
たった10ヶ月しか活躍しなかったことから、写楽は、誰か別の有名な絵師が何らかの事情で使用した変名であるという説があります。
写楽本人とされる候補者としては、
・浮世絵師・葛飾北斎
・浮世絵師・喜多川歌麿
・浮世絵師・初代歌川豊国
・絵師・円山応挙
・歌舞伎役者・中村此蔵
・戯作者・山東京伝
・戯作者・十返舎一九
・版元・蔦屋重三郎
など実に多くの人物の名があげられ、中には女性だったとする説も。
しかし、決定的なものはありませんでした。
写楽は能役者?その正体の最有力説
ところが最近の研究により、写楽の正体について「ほぼ間違いない」という有力説が浮上しました。
決め手に欠けた写楽=能役者・斎藤十郎兵衛説
まず、以前から可能性を指摘されていたのは、写楽の正体が阿波徳島藩主・蜂須賀家お抱え能役者の斎藤十郎兵衛(1763年-1820年)だという説です。
『江戸名所図会』で知られる江戸の考証家・斎藤月岑(1804年-1878年)は、彼の著書『増補浮世絵類考』の中で写楽について、
「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」
と記しました。
つまり、写楽は八丁堀に住んでいた阿波徳島藩主蜂須賀家のお抱え能役者だったというのです。
・写楽居住地は、版元蔦屋重三郎や芝居小屋に近かった
・東洲斎写楽の「東洲斎」は斎藤十郎兵衛の名前の「さい・とう・じゅう(斎・藤・十)」を入れ替えて付けた名前に見える
これらの理由から、写楽が能役者・斎藤十郎兵衛だと言われたのです。
しかし、本当にその能役者の実在が確認できていませんでした。
点が線となった!説得力を増す写楽=能役者・斎藤十郎兵衛説
そしてついに近年、写楽の研究家たちにより、
② 近吾堂版「江戸切絵図」の八丁堀明細図に、写楽が住むという地蔵橋で能役者・斎藤十郎兵衛らしき人物の名前が見つかったこと
③ 斎藤十郎兵衛が実在する人物である証拠に、埼玉県越谷市にある法光寺の過去帳に一致する人物の記録があったこと
これら①②③のポイントが結びつけられ、東洲斎写楽=斎藤十郎兵衛説が有力となったのです。
東洲斎写楽=斎藤十郎兵衛ならばその墓所は?
もし、写楽の正体が能役者の斎藤十郎兵衛ならば、その謎を解く鍵となった過去帳のある埼玉県越谷市の法光寺こそが写楽の葬られた寺となります。
現在、寺には写楽こと斎藤十郎兵衛の墓/記念碑があります。
墓碑の左右には、あの写楽の代表作「大谷鬼次の江戸兵衛」と「市川蝦蔵の竹村定之進」が表わされ、真ん中には「写楽」の号と素性確認の決め手となった1820年の過去帳の写しが記されています。
「政三庚辰年 三月七日 釋大乗院覚雲居士 八丁堀地蔵橋 阿州(阿波)殿御内 斎藤十郎兵衛事 行年五十八歳 千住ニテ火葬」
【浄土真宗法光寺:埼玉県越谷市三野宮1336】
きょうのまとめ
写楽とは?簡単にまとめると
① 江戸時代中期の寛政年間にたった10ヶ月だけ活躍した浮世絵師
② 大胆で斬新な役者絵は大衆ウケせず、作風を変えながら販売されたが生前にはその個性や芸術性が認めらぬまま、忽然と消えた人物
③ その正体には諸説あるが、最も信憑性のある説としては能役者・斎藤十郎兵衛
です。
生前の写楽は、望むほど浮世絵師としての実力を認められず口惜しい思いをしたため、たった10ヶ月で東洲斎写楽を封印したのかもしれません。
しかし現在、写楽の作品は国内・国外を問わず高く評価され、江戸文化のパワーを伝えるにふさわしい個性あふれる画風が多くの人々に愛されています。
それが多少でも彼を慰めることになるでしょうか。
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