幕末~大正時代を駆け抜け、陸軍の軍人として西南戦争・日清戦争・日露戦争など、数々の戦争で日本を背負って戦った
大山巌。
リーダーとしての器が大きく、部下への信頼で成り立つその統率力は、明治維新の英雄・西郷隆盛の再来などとしばしば称されます。
また大山の特殊なところは、敵国の軍人からも多分に敬意を払われていることでしょう。
第二次世界大戦後に日本を配下に置き、統治を行ったダグラス・マッカーサーさえも、大山には敬意を示し、自室にその写真を飾っていたという話があるぐらいです。
驚くほどの人徳を兼ね備えた大山巌という人物。
いったいどんな人だったのでしょう?
今回はその生涯を通して、彼の人物像を探っていきましょう。
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大山巌はどんな人?
- 出身地:薩摩国鹿児島郡加治屋町(現・鹿児島市加治屋町)
- 生年月日:1842年11月12日
- 死亡年月日:1916年12月10日(享年74歳)
- 陸軍の軍人として最高位の元帥陸軍大将まで上り詰め、近代日本の基礎を作った。部下を信頼し、敵軍にも敬意を払う器の大きなリーダー。
大山巌 年表
西暦(年齢)
1842年(1歳)薩摩国鹿児島郡の城下町・加治屋町にて、薩摩藩士・大山綱昌の次男として生まれる。
1862年(20歳)藩内で倒幕を唱えていた過激派に属し、京都にて寺田屋事件に加担。藩の最高権力者だった島津久光らに鎮圧され、謹慎処分を受ける。
1863年(21歳)薩英戦争を期に謹慎が解かれ、砲台に配属される。これによってイギリスの軍事力に脅威を感じ、幕臣・江川英龍に砲術を学ぶようになる。
1868年(26歳)戊辰戦争に砲兵隊長として参加。学んだ砲術を駆使し、各地で活躍した。
1869年(27歳)ヨーロッパに渡り、武器工場や造船所、普仏戦争などを視察。翌年からさらなる兵器研究のため、スイス・ジュネーヴに留学する。
1873年(31歳)西郷隆盛が反乱士族を率いて官職を辞職。政府に戻るよう説得するために帰国する。
1877年(35歳)政府軍と反乱士族のあいだで西南戦争が勃発。城山に立てこもった西郷隆盛を指揮官として追い詰め、反乱を鎮圧する。
1880年(38歳)第一次伊藤内閣が成立。最初の陸軍大臣に任命される。
1894年(52歳)日清戦争に陸軍大将として従軍。第2軍司令官を務め、旅順や金州といった軍事拠点の攻略など、主戦場周辺の敵戦力を削ぐことで戦況をサポートした。
1899年(57歳)参謀総長に就任し、陸軍の最高位である元帥陸軍大将の称号を与えられる。
1904年(62歳)日露戦争にて満州軍総司令官を務め、日本を勝利へ導いた。以降は元老として内政に携わる。
1916年(74歳)福岡にて陸軍特別大演習を参観。その帰路で胃病に倒れる。胆嚢炎を併発し、療養するも12月10日に死没。
大山巌の生涯
1842年、大山巌は薩摩国鹿児島郡の城下町・加治屋町(現・鹿児島市加治屋町)にて、薩摩藩士・大山綱昌の次男として生まれました。
父の綱昌は西郷隆盛の叔父にあたり、大山と西郷は従兄弟同士。
また当時の薩摩藩には郷中教育という、青少年をグループ化して、1人の指導役が面倒を見る風習があり、ここで大山を指導したのも西郷でした。
こういった境遇から、大山は15歳年上の西郷を兄のように慕い、武芸やリーダーとしての資質を彼から直に学んでいったのです。
血気盛んだった青年期…寺田屋事件にも加担
1862年のこと、大山は藩内で倒幕を唱えていた過激派の有馬新七らの影響で、幕臣をターゲットにした暗殺未遂、寺田屋事件に加担しました。
これを藩の最高権力者・島津久光らが鎮圧し、大山は謹慎処分を受けることに。
大山は幼少より血気盛んなところがあり、クーデターに参加しようとしたのも、藩の保守的な姿勢を好まないその性格からだったと考えられます。
ただこの謹慎処分は1863年に薩英戦争が勃発したこともあり、1年ほどで解除される流れになりました。
薩英戦争の経験から砲術を習得・戊辰戦争で活躍
薩英戦争により謹慎が解かれ、砲台を任された大山は戦場で海外列強の脅威を目の当たりにし、今のままの日本では太刀打ちできないと痛感します。
このことから、後に陸軍軍人となる黒田清隆とともに幕臣・江川英龍の塾に通い、砲術を学ぶように。
ここで学んだ大山の砲術は、1868年に勃発した幕府vs新政府軍の戊辰戦争で日の目を浴びることになります。
大山は砲兵隊長として鳥羽・伏見の戦いから、最終局面の会津戦争まで、各地で活躍。
特に大山によってより強力に改良された大砲は評判がよく、これらは彼の幼名をとって
「弥助砲」と呼ばれていました。
会津戦争では敵兵に左太ももを撃ち抜かれる負傷をします。
しかし総じて大活躍だった大山の株はこの戊辰戦争で大きく揚がり、兄貴分の西郷隆盛も彼への信頼感をずいぶん強めたといいます。
ヨーロッパへの留学
戊辰戦争が開け明治維新が成されると、陸軍に入隊した大山は、早速ヨーロッパの視察へと出向きます。
維新後すぐという行動の早さからも、薩英戦争の経験が強烈だったと見て取れますね。
このとき大山は造船所、武器工場、普仏戦争の戦場などを見学。
ヨーロッパでは兵器の技術が日本よりずっと進んでいることに驚愕します。
するとさらなる研究を行うため、翌1870年~73年までの約3年、スイスのジュネーヴへ留学することに。
薩英戦争後に砲術を学んだ期間といい、この留学といい、大山は常に兵器に対し、最先端であろうと努力していたのです。
こういった経験がのちの日清・日露戦争での功績に結びついているのではないでしょうか。
兄貴分の西郷隆盛と敵対することに…
1873年のこと、大山のヨーロッパ留学は思わぬ形で幕を下ろすことになります。
なんと戊辰戦争で英雄となり、新政府の時代を導いた立役者である西郷隆盛が官職を辞し、政府に反感を抱く士族たちのリーダーとなって、鹿児島に戻ったというのです。
政府は西郷を説得できるのは、旧知の仲である大山だけだと考え、ヨーロッパから彼を呼び戻しました。
そこから大山は説得に向かったものの、西郷は政府に戻ることを拒否。
その際、
「それなら、おいの命さも兄さにお預けします」
と、大山は西郷に言ったといいますが、西郷はこれに対し
と突っぱねたのだとか…。
西郷は政府と反乱士族が争えば、反乱士族のほうが負けるとわかっていたのでしょう。
しかし政府に対しこれだけ反感を覚える者を生んでしまった責任は、自分が取らなければいけない。
その想いから士族たちのリーダーを買って出た西郷は、自分も彼らと共に死ぬことを選んだのです。
そして”このあとの日本はお前に託す”とでも言うかのように大山を東京へ帰し、ふたりは敵対関係になってしまうのでした。
西南戦争
1877年になると、新政府に対する反乱はいよいよ本格的になり、明治最大のクーデターである西南戦争が勃発。
この戦争で大山は政府軍の攻城隊司令官となり、城山に立てこもる西郷と対峙することになります。
最終的に、追い詰められた西郷は戦場にて自害。
大山はショックのあまり、発見された遺体を見ることができなかったといいます。
後に西郷の妻に見舞金を渡そうとするもこれを拒否され、自身の姉からも西郷を追い詰めたことを強く責められたのだとか…。
西郷が自ら責任を取るために反乱軍として死を選んだことや、その後の政府を大山に任せたことを、大山の身内は誰も理解してくれなかったのですね。
大山自身もこの出来事を気にかけ、以降鹿児島へは一度も帰らなくなったといいます。
このとき、唯一の救いとなったのが、明治天皇のこんな言葉でした。
「西郷も逆賊となってしまったことを悔いているだろう。これからは君を西郷の身代わりと思うぞ」
肉親の誰にも理解されずとも、天皇陛下だけは西郷の意志も、大山の気持ちも理解してくれていたのです。
この言葉を聞いた大山が以降も日本のために戦うことを固く誓ったことは、想像に容易いですね。
日清戦争
1894年になると日本vs清国の日清戦争が勃発します。
この戦争に大山は陸軍大将として従軍し、第2軍の司令官を務めました。
主戦場で戦っていたのは第1軍で、第2軍はあくまでサポート的な立場。
大山率いる第2軍は主戦場に赴かずとも、旅順や金州など、周囲の拠点を制圧することで敵戦力を削り、日本の勝利に貢献しました。
なにより、このとき評価されたのは大山の人徳です。
部下に対して決して偉ぶらずに信頼して任せ、敵国の兵にも敬意を払う。
寛大で律儀なその立ち振る舞いは、西郷隆盛の再来と称され、清国の兵たちも感心の声をもらしたといいます。
日露戦争
1904年の日露戦争では大山が参謀総長を務め、満州軍総司令官として全軍の指揮を執りました。
このとき日本は軍事力でロシアに劣っていましたが、これを勝利に導いたのは、参謀次長・児玉源太郎の戦略が優れていたからだとその功績が称えられています。
しかし戦略を練るのが児玉なら、それを現地で実行するのはすべて大山。
このふたりの信頼関係なくして、日露戦争の勝利はあり得ないものだったのです。
穏やかな晩年・死に際まで西郷隆盛の名を口にしていた
日露戦争後の大山はその功績から、国会の重鎮である元老に晩年まで列せられていました。
ただ、元来の部下に任せる性格から、政治への口出しもあまりしなかったといいます。
ぜひとも内閣総理大臣に…、という話もあったといいますが、大山はこれを頑なに辞退し続けたのだとか。
また、大山は愛妻家としても知られ、戦争が落ち着いてからはとにかく家族第一の生活を送っていました。
戦争が起こらない限り、軍人である自分の出番はない。そのぶん家族に奉仕しよう…という感じでしょうか。
とても穏やかな晩年。
そんななか、1916年12月10日、胃病から胆嚢炎を併発し、大山は74歳にしてその生涯に幕を下ろすことになります。
死に際にはうわ言で「兄さ…」と漏らす場面も。
西南戦争で西郷を追い詰めたことを、この期に及んでも悔やんでいたのですね…。
きょうのまとめ
大山巌の生涯を辿ってみると、どの場面を見ても、西郷隆盛との関係がその人となりに大きく影響していたことを感じさせられます。
西郷に人としてのいろはを教わり、西郷の死からその後を受け継ぐ存在となり、西郷の再来とまで呼ばれるようになる。
西郷がいたからこそ、大山は歴代でも隋一の軍人となり得たといえます。
天国で再会して、昔話でも楽しんでくれているといいですね。
最後に今回のまとめです。
① 薩英戦争の経験から砲術を学ぶ、海外留学して兵器の研究をするなど、大山巌は海外列強に対抗するための努力を常に惜しまなかった。
② 西南戦争では不本意ながら、兄貴分の西郷隆盛を討つことに。そのことを生涯悔やみ続けた。
③ 第一線で指揮を執った日清・日露戦争では、司令官としての人となりから、敵味方問わず敬意を払われる存在になった。
日本も海外も問わず、多くの軍人から慕われるその姿はまさに、日本陸軍の誇りです。
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