徳川15代の将軍歴史の中で御台所(正室)であり
かつ将軍の生母となったのは崇源院ことお江だけです。
そして徳川15代の将軍家で、死後に火葬となって荼毘に付されたのもお江だけ。
そこには何か理由があったのでしょうか。
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お江の死
お江の生涯は、前半生と後半生で大きく違います。
戦いのために父母や姉を失い、政略に翻弄された前半生とは違って、後半は将軍の妻、将軍の生母として落ち着いた生活ができました。
そんな彼女は、1626年9月15日、江戸城西の丸で亡くなりました。
享年54。
のち11月28日には従一位を追贈されています。
お江が火葬を望んだ理由
土葬が一般的
お江は生前に火葬されることを望んでいました。
当時の江戸においては、支配者階級の者も庶民も火葬されることはまずありませんでした。
そもそも、江戸時代の初期では火葬場さえありません。
お江の夫である徳川秀忠は現に土葬されています。
その頃は土葬が一般的だったのです。
珍しかったお江の火葬については多くの記録に残されています。
宗教上の考え方?
では、どうしてお江はあえて火葬を望んだのでしょうか。
その直接の理由については記録も残っておらず、残念ながら本当の理由は本人にしかわからないのです。
可能性として考えられるのは、宗教上の考え方の違いです。
徳川家康をはじめ、徳川家の歴代将軍夫妻たちは浄土宗を信仰していました。
お江の夫・徳川秀忠も同様です。
彼らは、死後には「神」として祀られる身分の人々だったのです。
悪臭がし、「穢れた煙」が発生する火葬というのは、将軍夫妻には相応しいとは考えていませんでした。
ところが、お江は個人的には浄土真宗(当時は一向宗)を信仰していました。
浄土真宗というのは、日本仏教の他の宗派と比べて、死を「穢れ」として捉える傾向が少なく、火葬を推進した宗派です。
火葬の煙を穢れだと考えることはありません。
お江は浄土真宗の勢力が強い北陸出身でした。そのために火葬を嫌う必要がなかったのかもしれません。
お江の火葬
火葬場のなかった当時の江戸ですが、お江のために江戸城の南東部の平原に龕前堂と呼ばれる特設の火葬場を建設しています。
火葬の当日に煙が流れた一帯は寺地として下げ与えたのだそうです。
しかし、当時の火葬というのは大変なことでした。
今のような設備も燃料もない当時は、薪に火をつけて焼くしかありません。
しかし、この方法では大量の薪が必要になる上に、きれいに骨だけが残るように焼きあがることはまずあり得なかったのです。
よほどお江が火葬にこだわったということが考えられます。
お江をしのぶ場所
お江の墓
お江は、死後に長男の徳川家光によって増上寺に埋葬されています。
・墓碑:増上寺(東京都港区芝公園4-7-35)法名は「崇源院殿昌譽和興仁淸大禪定尼」
墓以外にも以下の供養塔があります。
・五輪塔:金剛峯寺(和歌山県伊都郡高野町高野山132)碑銘は「崇源院殿一品大夫人昌譽大禪定尼」
・六角宝塔内卵塔:金剛峯寺(住所は同上)碑銘は「崇源院殿源夫人昌譽大姉」
お江の墓の調査
1958年、戦後になって人類学者の鈴木尚が中心となって行った、増上寺の徳川家墓所発掘調査があります。
その際にお江の墓も発掘され、遺骨調査が行われました。
それによると、お江は確かに火葬にされていることが確認されています。
そして、増上寺に葬られた将軍一門の中で荼毘に付されていたのはお江だけだったことも間違いありませんでした。
お江の父・浅井長政、母・お市、姉・淀殿たちは背が高かったと推察されていますが、その調査によると、お江は小柄で華奢な女性だったことがわかっています。
きょうのまとめ
お江が火葬を選んだ理由が知りたいものですが、まだそれについて確証できる資料は発見されていません。
今後の研究で何かわかることがあるかもしれません。
簡単にまとめると
① お江が火葬されたのは本人の意思によるものだった
② 当時火葬は非常に珍しく、徳川将軍一門でお江が唯一火葬となった人物である
③ 遺骨調査によってお江は華奢で小柄な女性だったことが判明した
火葬が全く一般的でなかった時代にあえて火葬をのぞんだお江には、強い意志が感じられますね。
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