お江とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

近江の戦国武将・浅井長政の娘・ごうは、

江戸幕府第3代将軍・徳川家光の生母となった女性です。

彼女はどんな人物で、どんな生涯を送ったのでしょうか?

 

お江とはどんな人?

プロフィール
お江

出典:Wikipedia

  • 出身地:近江国(滋賀県)の小谷城下での誕生と考えられるが明確ではない
  • 生年月日:1573年8月
  • 死亡年月日:1626年11月3日(享年54歳)
  • 浅井三姉妹の三女であり、3度目の結婚で江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の正室となり、3代将軍・徳川家光の生母となった

 

お江 年表

年表

西暦(年齢)

1573年(1歳)浅井長政と織田信秀の娘・市の元に誕生。同年浅井氏滅亡のため、織田信長によって母・市や姉たちと共に救出・保護される

1582年(10歳)本能寺の変による信長死去の後、母・市が柴田勝家と再婚し、姉たちと共に引き取られた

1583年(11歳)賤ヶ岳の戦いで養父・勝家が羽柴秀吉に破れ、勝家と市は自害。三姉妹は秀吉に引き取られる

1584年(12歳)佐治一成の正室となる

1586~1592年(14歳~20歳)この頃豊臣秀勝に再嫁して正室となる

1595年(23歳)徳川秀忠に再嫁して正室となる

1605年(33歳)屋島の戦いで平氏を破る。

1615年(43歳)大坂夏の陣で大坂城落城、豊臣秀頼と姉・淀殿(茶々)が自害する

1626年(54歳)江戸城西の丸にて死没

 

浅井家の三女・お江の前半生

ごうごう小督おごう江与えよなど諸説あって、正しい名前ははっきりしていません。

現代では崇源院とも呼ばれますが、これは諡号しごう(貴人の死後に生前の評価に基づいて贈られる名)ですので、生前には使われていません。

この記事では「お江」で統一しています。

2人の父を亡くし、生母を亡くした浅井三姉妹

お江の母親となるお市は織田信秀の娘で、織田信長の妹でした。

1567年、お市は近江の戦国武将・浅井長政に嫁ぎます。

これによって浅井家と織田家の同盟が成立し、美濃攻略を狙う織田信長にも、一大勢力織田家を味方につけたい浅井長政にとっても、有意義な関係となったのです。

ところが、1570年、織田信長は、浅井家が古くから同盟関係のあった越前の朝倉義景を攻撃。

古い盟友を裏切れない浅井氏は織田氏を攻め、浅井家と織田家との同盟が崩れてしまいました。

のち、浅井家は徳川と連合を組んだ織田勢に侵攻され、浅井氏の一ノ谷城は落城します。

お江の父親・浅井長政は妻のお市とお江ら3人の娘たちを織田方に逃がしたあと、自害して果てたのです。

お江の受難と秀吉に利用された3度の政略結婚

その後、お市とお江ら3姉妹は織田信長や織田信包のぶかねらの手厚い保護を受けて生活します。

しかし、1582年の本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれます。

そののちお市は柴田勝家と再婚し、お市の娘の3姉妹も一緒に勝家の世話になったのです。

ところが、1583年に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は羽柴秀吉の軍に包囲され、お市と共に自害してしまいます。

豊臣秀吉

お江を含む3姉妹は、今度は仇となる羽柴秀吉に保護されたのです。

3姉妹のうち最初に輿入れすることになったのがお江でした。

秀吉の意向によって1584年に16歳の佐治一成さじかずなりへ嫁ぎました。

しかし、一成はその後小牧・長久手の戦いにおいて羽柴秀吉の怒りを買い、追放されてしまいました。

その際にお江は離縁させられています。

次に、お江は秀吉の養子である岐阜城主・豊臣秀勝と再婚しています。

秀勝との間には完子さだこが誕生。

しかし、秀勝は朝鮮出兵の際に、出征先で病没してしまいました。

のち、完子はお江の姉・茶々(淀殿)の猶子となっています。

さて、お江はまたも豊臣秀吉の命で3度目の結婚をすることになりました。

次の相手は徳川秀忠でした。

秀吉はお江を秀忠と結婚させて、豊臣家と徳川家との関係を密にし、徳川家を秀吉の世継ぎである豊臣秀頼の後ろ盾にしようと考えたのです。

このようにお江はことごとく秀吉の政略として利用され続けました。

 

徳川の女となったお江の後半生

お江は、3度目の結婚相手である徳川秀忠との間に7人の子供をもうけました。

その間に世の中は大きく変わっていきます。

お江の立場の変化

お江を取り巻く環境も変わっていったのです。

豊臣秀吉は亡くなり、関ヶ原の戦いで徳川方が勝利しました。

大坂の陣で豊臣家は滅び、その際に、豊臣秀吉の側室となっていたお江の姉・淀殿も彼女の息子・豊臣秀頼と共に自害してしまいました。

そして、1616年には徳川家康も死亡。

そしてついに、お江の夫である徳川秀忠が江戸幕府第2代将軍に就任したのです。

将軍の正室、将軍の生母としてのお江

そして、お江が徳川秀忠との間にもうけた2男5女の一人は、のちに第3代将軍となる徳川家光でした。

こうして、お江は徳川将軍の正室であり、生母となったのです。

江戸幕府の15代ある将軍の正室の中で、将軍の生母を兼ねた女性は、お江ただ一人だけです。

前半生は血みどろの戦いに巻き込まれ、政略に翻弄されたお江でしたが、後半は安定した暮らしを送ることができたようです。

1626年、お江は江戸城内にて亡くなりました。

 

きょうのまとめ

今回は、淺井家の有名な三姉妹のうちのお江こと崇源院についてご紹介いたしました。

お江とは

① 浅井三姉妹の三女で、茶々、初の妹である

② 幼いうちに父母を亡くし、政略に利用されて3度も結婚した

③ 3度目の結婚でのちの江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の正室となり、のちには第3代将軍・家光の生母となった

歴史に翻弄されながらも我慢強く生きていったお江。

せめてその晩年は幸せを感じることができたのだといいですね。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku